ぽかっ(73) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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柏紋(2)


◆すくらんぶるアートヴィレッジ◆(略称:SAV)    若い芸術家たちの作業場・みんなの芸術村-かしわ1


■西日本では鶏肉のことをよく「かしわ」と呼ぶのですが、関東より北ではあまり使い慣れない言葉のようです。かしわの語源には3つほど説があります。
1.色から柏の葉を連想させた

2.鶏の羽ばたきが『かしわ手を打つ』姿と似ている

3.朝廷の中の『膳部(かしわべ)』という料理方の部署から由来する

どれが正解ということは言えないのですが、他の肉の例をあげると、猪を「ぼたん肉」と呼んだり、馬を「さくら肉」と呼んだり、鹿を「もみじ肉」と呼んだりするので、色を元に名付けられたという説が有力に感じます。辞書でも「かしわ(黄鶏)」と書かれていることが多々あります。さらに、かしわ(柏)、もみじ(紅葉)、ぼたん(牡丹)、さくら(桜)と並べてみると、肉食がタブー視されていた時代の隠語として使われたのではないかとも考えられます。それ以外に、鶏肉は紅葉した柏の色にたとえられて「柏」となった、在来種の鶏は羽毛が茶褐色であった事から、「褐色羽」と書いてかしわと読んだという説もあります。


◆すくらんぶるアートヴィレッジ◆(略称:SAV)    若い芸術家たちの作業場・みんなの芸術村-かしわ2

■「かしわ」は今でこそ鶏肉一般の名称ですが、元々は淡い赤褐色(かしわ色)の羽根の日本在来種である和鶏の名前だったようです。戦前までは日本全国で通じる言葉だったそうですが、アメリカからブロイラーが入ってきてからは、主に西日本でしか使われなくなったとか。そしていつしか和鶏に限らず、鶏肉一般の名称として広まったのです。どうして地域が西日本のみに偏ったのかが謎です。


◆すくらんぶるアートヴィレッジ◆(略称:SAV)    若い芸術家たちの作業場・みんなの芸術村-かしわ3

■文献によるとかしわが鶏肉のみを指すようになったのは、19世紀の中頃以降とされ、その頃を境に東日本ではかしわという言葉は使われなくなってきています。江戸そばに残された鶏肉の入った「かしわそば」はその名残りとされています。


◆すくらんぶるアートヴィレッジ◆(略称:SAV)    若い芸術家たちの作業場・みんなの芸術村-かし4

さて、私の住む羽曳野市のすぐ隣にあるのが・・・「柏原市」です。

■JRには、漢字で「柏原」と書く駅が3つありますが、読みはすべて違っています。東海道本線の駅が《かしわばら》、福知山線の駅が《かいばら》、そして、大阪の駅は《かしわら》です。


■柏原市

木の種としての「柏」「槲」「橿」、一般に木の葉を意味するカシワ、あるいは、片足羽(かたしわ)川の川原など諸説はあるが不詳。新撰姓氏録に「柏原連(かしわらのむらじ)」の名があります。


■片足羽川

吉田東悟『地名辞書』によれば、「片足羽川」は大和川の別名であり、大県郡の旧名の堅鹽からの名としています。カタシハと訓む。

■高橋虫麻呂歌集(万葉集巻9-1742-1743)
・河内の大橋を独り去く娘子を見る歌

級照る 片足羽川のさ丹塗りの大橋の上ゆ 紅の赤裳裾引き 山藍もち 擂れる衣着てただ独り い渡らす児は若草の夫かあるらむ 橿の実の独りか寝らむ 問はまくの欲しき我妹が 家の知らなく

要約:片足羽川の赤くぬった大橋の上を、紅の赤裳(あかも)の裾を引き、ヤマアイで染めた着物を着てたった一人で渡って行くあの人にはご主人がいるのだろうか。

・反歌

大橋の頭に家あらば うらがなしく 独り行く児に宿貸さましを
要約:大橋のたもとに家があったら、悲しそうにひとり渡って行くあの子に宿を貸したいのだけどなあ。


■高橋虫麻呂

第3・4期を代表する歌人。藤原宇合(うまかい)と親交があり、常陸国に住んだこがあるとされる。伝説を題材とした叙事詩にすぐれる。兎原処女(うはらおとめ)の歌など。


さてさて、「かしわ」から「はし」の話へと・・・


■柏原市国分や安堂は遺跡の多い場所で古代からの交通の要衝だったのでしょう。ここから磯齒津路や大津道に渡るためには大和川か石川を渡る必要があります。多くの人々が渡っていったことでしょう。対岸の藤井寺市にはまた多くの遺跡が集中している地帯です。ここに船橋と言う地名が残っており、かつては船橋が架けられていたと考えられます。


■船橋とは、船を並べてその上に板を置き、歩いて通れるようにした橋のことです。『日本書紀』仁徳一四年、「猪甘津に橋為す。即ち其の処を号けて小橋という。」とあります。これが最古の記録。ここにも舟橋なる地名があります。初期の橋は舟橋だったのでしょう。


■万葉集には、130首を超える七夕の歌があります。牽牛と織女が年に一度だけ逢うための方法は、徒歩、舟、橋など様々に描かれています。この中から「橋」を抜き出してみると・・・歌数が一番少ないのです。

天の川棚橋渡せ織女のい渡らさむに棚橋渡せ(10-2081)
要約:天の川に棚橋を渡そう。織女が渡ることのできるように。


■「棚橋」とは、辞書によると「仮の橋」または「棚板のように岸にのせただけの橋」となっています。一夜限りの逢瀬の橋は仮の橋、いや、仮の橋でないと意味がないのかもしれません。七夕に関係する橋は、この「棚橋」以外に、

機物のまね木持ち行きて天の川打橋渡す君が来むため(10-2062)
要約:機織の踏み板を持って行って天の川に打橋を渡しましょう。貴方が来られるように。

■織女は、“まね木”(機織り機の踏み板)で橋を架けます。毎日仕事に使っている機織り機の一部を橋に転用するのですから、これに勝る仮の橋はないでしょう。「打ち」には、「ちょっと・軽く」なんていう意味もあるそうですから、「打橋」には「ちょっと簡単に渡した橋」という意味もあるのかもしれません。とすると、「打橋」も「棚橋」もどちらも似たような「ささっと架けられる橋」ということになります。

■万葉集中で「橋」が詠まれたものは25首を越えますが、「棚橋」は、七夕関係の歌の中に2首あるだけです。タナバタとタナハシ。この音の響きには、何か意味があるのではと考えてしまいます。織女が棚機津女(タナバタツメ)と呼ばれたことにも関係するのではと思います。また、「打橋」の方は、七夕以外の歌にも出てきます。有名なところでは、柿本人麻呂が明日香皇女の死に際して詠んだ

飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡す 下つ瀬に 打橋渡す(2-196)

■ここに出てくる「石橋」は、石製の頑丈な橋のことでではなく、飛鳥・稲淵にある飛び石のように浅瀬に石を並べたものをいいます。この他、万葉集には「継橋」「舟橋」「浮橋」などの橋も出てきます。が、これらもみな先の三つの橋と同じような簡易な橋になります。


ようやく「石橋」が出てきました。やれやれ・・


◆すくらんぶるアートヴィレッジ◆(略称:SAV)    若い芸術家たちの作業場・みんなの芸術村-かし5

一般に「かしわで」と呼ばれますが、漢字で書くと「柏手」「拍手」です。