キアズマ(3)
■1973「ピアノ炎上」
出演:山下洋輔 録音:本間明・西崎英雄 音楽監督:八木正生 撮影:渋川育由・清水まこと プロデュース:飯塚晃東 監督:粟津潔
川崎市生田6055番地(当時)の高台の空き地に1台のグランドピアノが運び込まれ、それに火がつけられた。山下洋輔は燃え上がるピアノを弾き続ける。
山下さんは1973年、グラフィック・デザイナー粟津潔さんの自宅近くの空き地で、炎に包まれたピアノを演奏しました。当時、作曲家の林光さんが中心となって取り組んでいた企画の一環で、水に沈めるなどさまざまな状態でピアノの音を出して収録し、レコード教材を作るというものでした。山下さんは、依頼を受けて火の付いたピアノを弾き、この時の様子は、その場に立ち会った粟津さんが16ミリフィルムに収め、映像作品「ピアノ炎上」としてニューヨーク近代美術館に収蔵されました。
山下さんは、『ピアノ炎上』撮影当時は、粟津作品のオブジェとしての役割を全うしたと同時に、ほかの誰もやらなかったある芸術表現を獲得したのでは・・・と振り返り、「おれは一体、何をやったんだ、何だったんだ、というのを、どうしても再確認したい」と。
1973年に《ピアノ炎上》に参加して以来、山下洋輔はことあるごとに「ピアノを燃やしながら演奏するピアニスト」と呼ばれ続けてきた。しかし、当時、山下は偶然頼まれて燃えるピアノを演奏したのだった。粟津潔もその現場で「たまたま」16mmカメラをまわしていたのだという。そして、その姿はフィルムの中に「燃えるピアノを弾くピアニスト」として固定化され、粟津潔の芸術作品として現在に至っている。
■山下洋輔ライブ「ピアノ再炎上」
■2008.2.17
撮影以来35年の時間を経て、「荒野のグラフィズム:粟津潔展」を機に、金沢21世紀美術館の展示室[ワークショップ・ルーム・プロジェクト]において、山下洋輔は粟津潔の《ピアノ炎上》をはじめとする映像作品と正面から向き合うこととなった。燃えるピアノを弾く山下洋輔が大画面の映像で映し出されるなか、山下は過去の自分自身と共演するライブ《ピアノ再炎上一粟津潔の映像作品とともに一》を挙行した。明らかにそれは、山下洋輔と粟津潔という二人の表現者の過去の表現の回顧にとどまるものではなかった。粟津ら先鋭的なアーティストたちが踏みしめてきた「荒野」は、まさに今現在の私達の足下に地続きにつながっていることを誰もが体感する鬼気迫るライブであった。そして山下洋輔は、自分自身の全身全霊をもって今、燃えるピアノとともに新たな表現を世に問おうとする。
その行為に最もふさわしい場として、能登の海岸が粟津ケン氏(粟津デザイン室代表)によって提案された。そこは粟津潔の父の出身地であり、粟津がこよなく愛した北陸の海原が広がっている。もとより、「荒野のグラフィズム:粟津潔展」は、粟津が拓いた表現の世界の21世紀における意味と新たな価値を見いだそうとする試みであり、展覧会場そのものが、新たな創造の発信地となることを目指すものである。こうした時間と空間によって紡がれた創造のプロセスを経て、ついに粟津潔ゆかりの地である北陸の海の夕暮れ、山下洋輔は現代の多様なメッセージを孕む《ピアノ炎上2008》を21世紀の歴史に刻む。
■2008.3.8
能登半島の西側、石川県志賀町の海岸で3月8日夕、ジャズピアニストの山下洋輔さん(66)が、燃えるグランドピアノを演奏する「ピアノ炎上2008」を開いた。日本海をバックに砂浜に置かれたピアノは数十年たった廃棄寸前の古いもの。午後5時すぎに共鳴板に点火され、集まった450人の観衆は、夕景の中で燃えさかるピアノとその調べに魅入られた。山下さんが燃えるピアノを弾くのは、粟津潔さん(79)の映像作品の中で演奏して以来35年ぶり。今回は山下さんの希望で再現した。消防団の防火服姿で即興演奏した山下さんは、炎が身に迫るまで、6分間にわたって鍵盤をたたき、弦が焼き切れ、音がならなくなった時点でピアノから離れた。鍵盤の間からも煙が噴出し、煙くて仕方なかったという。演奏後も山に日が落ちるまで、ピアノが燃えるのを見つめていた。
Kiyoshi AWAZU
「形あるものが崩れ、壊れる時、言葉にならない何か得体の知れぬものがある。」
「ことばを発することのできなかった不自由さの、のっぴきならない言葉こそ、自由な言葉たり得るのではあるまいか。」
■粟津 潔(1929年2月19日 - )
東京都目黒区出身。法政大学専門部中退。絵画・デザイン技法は独学である。背景やフォルムを緻密な線や混沌とした色彩で構成し、一見ファインアートであるかのように見える作風が特徴。油彩作品も多数制作している。
1955年の日本宣伝美術界展(日宣美)で日宣美賞受賞。1960年に建築家の有志を募り『メタボリズム』を結成する。その後武蔵野美術大学商業デザイン学科(現・視覚伝達デザイン学科)助教授に就任、デザイン教育に携わる。1966年に『エンバイラメント』の会を結成、翌年の1967年頃から大阪万国博覧会のテーマ館別構想計画などを練る。その他、国内外問わず国際的なプロジェクトに参加している。1990年に紫綬褒章受章。