家紋の気分(3)
「イ菱の与吉」に続いて「イ菱の陣内」というのも発見した。
さらに・・・「イ菱のかん二」もあった。
■国周「郭の立追夜の賑ひ」かん菊の紀之助/三代沢村田之助、イ菱かん二/四代中村芝翫、たち花の市/四代市村家橘(大3)慶応2年
■第十二世守田勘弥 大槻如電 明治39年10月
新富座主として、明治劇界の改革、俳優の地位向上に尽くした興行界の風雲児の伝。発行者は遺児の守田寿作(後六代目《現在七代目に数える》三津五郎)と好作(後十三代目勘弥)。
■第十二世守田勘弥から
十二代目守田勘弥の実父利兵衛が筑波から商売を起こすため江戸に出て来る。ある日歌舞伎見物をするが、当時の名優翫雀の歌右衛門の芸に感服し、弟子入りを志願するが断られる。そこで・・・大坂町に名倉弥次兵衛と云って千住の分家の接骨家がありました。此人大層に派手を売りまして、俳優共も入込む。やはり翫雀びいきである利兵衛は、療治でも頼んだ事があるかして名倉と懇意に成り、歌右衛門が此家に出入りするのを見て多年の志望を名倉に泣きつき、とうとう一念岩をも透すの譬えの如く本望をとげて歌右衛門の弟子に成りまして、芸名を中村イ四松(イシマツ)と申しました。加賀屋の紋がイ菱と申してイの字を四つ菱形ですから、此の名をつけました。名倉の声がかりと申すので、中役者即ち中通りから其頭になりました。宇あて紋の弟子ですから踊りは可なりに踊りましたが、役者は下手、お面は相当の目鼻だちと聞きました。初めにも申す中々の才覚者で、筆算も相応にでき、殊に常陸ものの御国魂剛性のところは屹度ある。それ故に市村座で帳元の手伝をも勤めさせると云う人物になりました。イ四松は交渉事や金繰りに才能を発揮し活躍、市村座の頭取になる。結婚しもうけた二番目の息子寿作が後の十二代目守田勘弥なのだ。イ四松が商売の道を捨てて歌舞伎の世界に飛び込んだのも驚きだし、それにあの有名な名倉接骨院が一役買っていたというのも驚き。
■嘉永7年(1854)閏7月22日
東海道の宮宿到着時に、八代目団十郎が出した書簡。宛名の一部が切り取られているため、誰宛のものかは未詳であるが、書き入れには「猿若町宅江来書翰」とある。また№45「八代目団十郎旅日記写」では、「閏七月廿三日舞納 廿三日夜は宮宿柳屋ト申宿へ参り 寅吉かつらし万吉秀朝四人ニて泊ル」とするが、本書簡の日付は22日。書面には大坂行きの後「長さきからあめりかへわたり申候間江戸中へ此事御申可被下候とて もはやめつたに帰り不申候間」と、江戸へ戻る予定ではなかった事が記される。書中で面目ないとした「イ四松」とは、八代目が座頭を務めていた江戸市村座の頭取中村イ四松を指す。「三升や」は狂言作者の三升屋二三治であろうか。
浮世絵ではないが、書状の中に「イ四松」という人物のことが記されている。予想以上に「イ菱」「イ四」が歌舞伎の世界に登場している。
■れんじゅう(連中)歌舞伎用語
①俳優を後援する観劇を目的とする団体。見連、けんれん、組、組見、くみけんともいう。上方では古くから手打連中というものがあり、顔見世の時には一座の俳優に進物を贈り、茶屋の軒には連中の印のある箱提灯をかけ、揃いの頭巾をかぶって奇妙な手を打った。中でも享保から安永にかけて(18 世紀)、次々とできた、大阪の<笹瀬><大手><藤石><花王>のいわゆる四連中が有名である。京都の<笹本>、名古屋の<真蘇木>、<花岡><大笹>の三連中などはいずれも大阪の手打連の模倣であった。江戸でも盛んで、中村芝翫の<イ菱連>、四世板東三五郎の<勝見連>、渋江抽斎らを中心とする<周茂叔連>通称<眼鏡連>などがあった。明治になってからも連中の形式初付き、<六二連><水魚連>など、識者による連中が権威と精力を持っていたが、次第に連中のカズも増え連中相互の競争も激しくなり、弊害も現れるようになった。現在は、後援会う形の組織を役者がもつようになった。
②元来は音楽・演芸などの一座をいうが、歌舞伎の場合は浄瑠璃・長唄などに出演して舞台に居並ぶ一行をいう。竹本連中、常磐津連中、長唄囃子連中など。単に<連中>とのみいう場合は ① の意に用いる。
中村芝翫の<イ菱連>があったほどだから、民衆の中で「イ菱」はかなりメジャーだったようである。