■風林火山
移動するときは風のように速く、静止するのは林のように静かに、攻撃するのは火のように、隠れるには陰のように、防御は山のように、出現は雷のように突然に、と言う意味である。
南北朝時代の南朝方の鎮守大将軍北畠顕家や甲斐(山梨県)の戦国大名・武田信玄の旗指物(軍旗)に記された「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山 / 疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵し掠めること火の如く、動かざること山の如し」の通称。日本で最初にこの旗を用いた武将は北畠顕家であるが、江戸時代以降の軍記物などで武田軍をイメージするものとして盛んに取り上げられる。
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の句は『孫子』軍争篇で軍隊の進退について書いた部分にある「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆。」からの引用。各版本によっては「難知如陰」と「不動如山」が逆に記されている場合もあり、「風林火山」はそうした版の前四句を採用したものと思われる。
「風林」・・・「風鈴」へ
そして・・・「風水」へ
■「風水」という名称は、晋の郭璞に仮託された『葬書』(成立は唐代か)に「気乗風則散界水則止 古人聚之使不散 行之使有止 故謂之風水」気は風に乗れば則ち散り、水に界せられば則ち止る。古人はこれを聚めて散らせしめず、これを行かせて止るを有らしむ。故にこれを風水と謂う。から来ている。三浦國雄の『風水講義』では郭璞を、比類のない博学の士であり、後世風水の元祖に祀りあげられた一種異能の天才と呼んでいる。風水には、地理、堪輿、山といった別名がある。地理は天文と対をなす語で、地理がもともとは狭義の地理学と地形の吉凶を論じる占術とが渾然一体であったことから来ている。堪輿は『天地』を意味している。山(山道)は風水師が良い風水を求めて山野を跋渉したことから来ている。「経曰気乗風則散 界水則止 古人聚之使不散 行之使有止 故謂之風水」という、郭璞に依るとされる風水の定義は、日本語訳したときに正しい意味として解釈できるか、というと難しい問題を含んでいる。そもそも「気」は風に乗じるようなものではないし、水に遇って止まるわけでもない。また、「経曰」「故謂」の文字から、郭璞とされる「葬経」の編者が風水という言葉を作ったわけではなく、以前から人口に膾炙していた「風水」という言葉を、何らかの権威ある書物からの引用によって、その語源に関するひとつの説を提示しているものであり、郭璞とされる「葬経」の編者も断定はしていないのである。
ただし、風水に関する典籍には、『葬書』と同じく古い歴史を持つ『狐首經』『青囊經』『青烏經』など、もっと多くの書物があり、異なる定義もある。また、風水という言葉と風水の発展形態を考えるならば、風水史において『葬書』『青囊經』『青烏經』が歴史的な価値があり、後世の風水書において引用され続けたのは周知の事実である。
台湾出身の漢学者にして『中國堪輿名人小傳記』(鐘義明著・台湾)に列せられる風水師でもある張明澄によれば、風水という言葉は『周易』の「水風井卦」が語源だという(張明澄著『周易の真実』1998年)文字の順序が逆ではないかと思うかも知れないが、易卦は、下から順に「初爻」「二爻」「三爻」と立卦するもので、先に「風」(内卦)があって後に「水」(外卦)というのが本来の順序である。「井」とはそのまま井戸のことであり、空気と水が良い、井戸を掘る場所、つまり人が住む場所を決めるための技術が「風水」だったという考察である。
風水の理論構成は、巒頭と理気の別を問わず、易卦理論が基礎にあり、風水という言葉の起源もまた『周易』にあるのも至当というべきで、何ら疑う余地のないところである。なお、現代の中国人社会では、風水はもっぱら墓相や墓そのものの意味に使われることが多い。実際に風水の効果が出るのは子孫の代になってから、という認識があるのかも知れないが、郭璞の『葬書』によるイメージが根強いためとも考えられる。


