白土三平と同様に忍者物で私を魅了したのは横山光輝である。「まよ子」において、鉄人28号を登場させたのは、神戸にまもなく出現する鉄人28号を祝ってのことであり、横山光輝の金字塔として本当に嬉しく思っている。神戸は、あの大震災もあって「元気」をキーワードに復興してきた。さらに、鉄人28号で元気になってもらいたい。東京のお台場にはガンダムが出現したが、関西には・・・鉄人である。
伊賀の影丸、木葉がくれの術。一陣の風に木葉が舞い、影丸の姿が消える・・・まさしく、風と共に去りぬ。
そして、伊賀や甲賀の忍者が活躍する中、忘れてならないのが「風魔」である。
■風魔小太郎は北条家(後北条氏)の忍者・風魔一党の頭領の代々の名前。風魔一党は相模足柄郡に拠点を持つ忍者集団で、伊勢盛時(北条早雲)の時代から諜報・後方攪乱などで活躍した。本姓は風間であったが、やがて風魔と称されるようになった。北条家に仕えること100年の間で、最も有名なのは北条氏政・氏直父子に仕えた五代目風魔小太郎(? - 慶長8年〔1603年〕)であり、背丈は七尺二寸(216cm)もあったともいわれる。特に1580年、武田勝頼との黄瀬川の戦いでは、闇夜に紛れた攪乱作戦で目覚しい戦果を挙げている。著名な忍者の一人、二曲輪猪助も風魔忍者である。北条家が滅亡すると、小太郎と風魔一党は江戸近辺を荒らし回る盗賊に成り下がり、1603年に盗賊・高坂甚内(甲斐武田家に仕えた忍者)の密告により徳川家に捕縛され処刑されたと言われている。なお、『北条五代記』にしかその名前は見えないことが武江年表に記載されており、軍記の著者の創作の可能性もある。
■忍者とは、領主に仕える隠密行動を主体とする集団。戦国時代まで、忍者は地域的に集団化した特殊な階級であり、武士や足軽といった身分の集団とはまた別の立場にあった。
ということは「武士」と「忍者」は、光と影の関係にある。
■『萬川集海』によると、忍術には「陰忍」と「陽忍」があるとされる。陰忍とは、姿を隠して敵地に忍び込み内情を探ったり破壊工作をする方法であり、一般的に想像される忍者とはこの時の姿である。対して陽忍とは、姿を公にさらしつつ計略によって目的を遂げる方法である。いわゆる諜報活動や謀略、離間工作などがこれに当たる。近年の研究では、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つことが判っている。
さらに、忍術の中に・・・陰と陽がある。
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戦前は「忍術使い」といった呼称が一般的だったが、戦後は村山知義、白土三平、司馬遼太郎らの作品を通して、「忍者」「忍びの者」「忍び」という呼称が一般化した。江戸時代までは統一名称は無く地方により呼び方が異なり、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ、“スッパ抜き”という報道における俗語の語源)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」「突破(とっぱ)」「透破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「竊盗(しのび)」「草(くさ)」「軒猿」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「屈(かまり)」「早道の者」などがある。
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現在女性の忍者のことを「くノ一(くのいち)」(“女”という文字を「く」「ノ」「一」と三文字に解体し呼称するようになった隠語表現)とする表現が一般的である。異説として鼻、目、耳、へそ、肛門などの人体にある九つの穴(鼻は一つの穴と数える)に加え、女性は穴が一つ多いことから「九の一(くのいち)」として呼んだという説も存在する。しかし穴の数え方が資料によってまちまちのため(例えば、へそではなく尿口を数えるなど)の説もあり、信憑性は今ひとつである。また「くのいち」という呼び方自体が山田風太郎の創作とする説もある。「くのいちの術」と言って女性を使った忍術は存在するが、忍者を題材にした映像作品や漫画作品などで登場するような女忍者は存在しなかったとも言われる。しかし女忍者が女中になりすまし城に潜入したという記述も残っており、女中達の「女の噂好き」を利用した諜報活動でかなりの功績をあげていたとされる。また史実に登場するくノ一で有名なのは、武田信玄に仕えた歩き巫女の集団がある。忍法帖シリーズなどで知られる養父市出身の作家・山田風太郎。同市関宮に山田風太郎記念館がある。忍法帖シリーズは、本当によく読んだ。思春期において、“くのいち”などが登場するちょっとエッチな物語は、ワクワクドキドキものであった。
■「全身墨染めの黒装束」「その中には鎖帷子を纏い、顔には墨を塗っている」「背中に刀」「夜陰に紛れて敵地に侵入する」という印象で描かれることが多いが、黒は夜に像が浮いて見えることから、紺色もしくは柿の熟したような色の衣装を使用していたとされる。現存する「忍び装束」とされる物も、ほとんどが柿色系統である。黒色よりも柿色の方が安価に製造できたからとする説もある。この衣装は、元々は甲賀地方(現在の滋賀県南東部)や伊賀地方(現在の三重県西部)で使われていた山着、野良着が元とする説がある。また、その状況に合った服装(町中では町人の格好、屋敷などに侵入する場合には使用人の格好など)、すなわち変装を用いており、特に虚無僧・出家・山伏・商人・放下師(ほうかし、大道芸人、奇術師)・猿楽・常の形(つねのなり、武士や農民)の七つは「七方出の術(七化)」と呼ばれる。また、「専用の」装束などを着用することは稀で、黒装束については、歌舞伎などに登場させる際に黒子のように観客に対して「見えない存在であること」を表現したものが後に、現実にもそのような格好で活動していたと誤認されたとする説もある。戦うよりも逃げることに重点を置いていたため、通常は重い鎖帷子は着用しない。漫画表現では、鎖帷子を簡略に描いたことから、網シャツのようなものを着たキャラクターデザインに発展した。背中に刀を背負うと動くとき邪魔になるため、通常は普通の武士のように腰に下げるが、床下などに潜むときは狭い所でも動き易くするため、また刀自体を盾代わりとするために背負った。
ここにも書かれているように、装束は「藍染」か「渋染」であり色的には「青」と「赤」の関係がある。そして、これらの忍者は定住を常とせず・・・ノマド的である。