裸のマハ(1797年-1800年頃)Francisco José de Goya
西洋美術で、初めて実在の女性の陰毛を描いた作品といわれている。
みなさん・・・ご存知でしたか?
当時のスペインで問題になり、誰の依頼によって描かれたかを明らかにするため、ゴヤは何度か裁判所に呼ばれた。ゴヤは他人から依頼を受けて絵を描くことが多かったからである。しかし、結局、ゴヤが口を割ることはなかった。『裸のマハ』『着衣のマハ』の2点とも、首相であったマヌエル・デ・ゴドイの邸宅から見つかったため、ゴドイの依頼を受けて描かれたものと言われている。裁判の後、絵は100年弱の間、プラド美術館の地下にしまわれ、公開されたのは1901年のことであった。モチーフの女性が誰であるか、ゴヤは明らかにしていない。マハ(maja)とは、「小粋な女(小粋なマドリード娘)」という意味のスペイン語であり、人名ではない。彼女らは、この地方独特の歯切れの良い発音と言い回しで、若い男と戯れ時には自由奔放な生活を楽しんだ。そのため、しばしば議論の対象となるが、主に2つの説がある。1つはゴヤと関係のあったアルバ公夫人マリア・デル・ピラール・カィエターナを描いたとする説。もう1つはゴドイの愛人であったペピータを描いたとする説。
2008年10月「Picasso and the Masters(ピカソと巨匠たち)」
パリでピカソ作品200点以上を含む展覧会があり、ピカソが尊敬していたベラスケスやレンブラント、ゴヤといった巨匠たちの絵画も展示された。主催者は、最も代表的な作品を世界中の美術館から借りる交渉に3年を要した。ピカソが影響を受けた巨匠らの作品はピカソの作品と並べて展示されている。マドリードのプラド美術館は、同展覧会のために7点を貸し出している。その中には、フランシスコ・デ・ゴヤの「裸のマハ」も含まれていた。
ゴヤとピカソ。一方は、18世紀のスペインの偉大な証人であり,ロマン主義の先駆者・近代絵画の創始者。他方は、キュビスム創始の中核をなし、現代美術のすべてに計り知れない影響をもたらしたスペインが生んだ20世紀最大の芸術家である。この二人には共通するものがある。ともに波瀾に満ちた人生を送り、死ぬまで多彩で、エネルギッシュな創作活動をつづけ天寿を全うしたことである。ゴヤ82年、ピカソ91年の生涯であった。この二人から「老い」を遠ざけたものは何か、人生の晩年になってなお熱情的な創作活動につき動かしたものはなんだったのだろうか。
ゴヤの創作活動のエネルギーの源は女性への愛だと主張する研究者がいる。ゴヤが優れた女性の肖像を描きえたのは、彼がその女性と愛しあったからだという。ゴヤがアルバ公爵夫人と親しくなるのは49歳のとき。33歳の夫人は、病み上がりの苦境の画家を庇護した。ゴヤには庇護者以上の人、官能と若さを満足させてくれる恋情の女性となった。7年後、アルバ公爵夫人が毒殺の疑いもある急死を迎えると、ゴヤはうちひしがれ、アトリエを捨て、街をさまよい、深い孤独にしずんだ。何年間もそれがつづいた。
個人的生活と芸術的生活の未分化な芸術家には、女性にたいする愛,憎悪などが芸術的インスピレ-ションをかきたてるのかもしれない。ピカソはまさにその典型的な芸術家であった。愛人のひとりであった女流写真家ドラ・マールは、ピカソの生き方と芸術様式を決定したのは、「女・詩・生活場所・友人そして犬だ」と述べている。愛人が変われば、ピカソの芸術に変化がおきたのである。
ゴヤとピカソには硬派の顔も見える。ゴヤの『戦争の惨禍』85点の版画は、ピカソの素描『フランコの夢と嘘』を思い起こさせる。いずれも怒りにみちたペンで描かれている。ゴヤやピカソは、行動家ではないとしても、覚めた時代の記録家だった。行動して参加する以上の意味を、描かれた悲惨な戦争に意味を与える。
ひとりの人間として見れば、欲望や欲求は私たちのそれと異なるものではない。金儲けを考え、よい女と一緒になり、地位や名声をえるための野心でぎらぎらしている。そのためには人をだしぬいたり、うらぎったりもする。性格もほかの個性とも相違はない。夢想し、行動し、自分の過去を、今生きている現在を、よりよき明日を考える普通の人間である。異なっている点といえば、私たちよりも現世に対する執着心が強い。なぜなら芸術は本質的に存在の肯定であり、祝福である。芸術こそ存在を完成することなのだ。ゴヤとピカソは本質的には無神論者なのだ。
愛すること。恋をすること。これほど存在を実感する精神的行為はない。創作活動は、実存的問題のかれらなりの解決手段にすぎなかったのだ。ある哲学者も言っている。「人生への愛、それはわれわれに疑惑をいだかせる女への愛なのだ」
この世にイヴが存在しなかったとしたら、芸術も生まれず、生殖もおこなわれなかっただろう。すべての生物は、アメーバーのように自己分裂して子孫を残していくことになる。「あらゆる美は生殖を刺激する」からである。「性的興奮はもっとも根源的な陶酔をともなう。性的興奮だけではなく、あらゆる種類の陶酔が力をもっている。あらゆる大きな欲望、強烈な熱情にともなう陶酔、勝利の陶酔、残虐や破壊の陶酔、張り詰めた意志の陶酔が力をもっている」(ニ-チエ)
ピカソ90歳のときの次のような科白は、ニ-チエのこのことばを裏付けた。「セックスと煙草…年齢がこの二つを私から奪ってしまった。しかし、欲望だけはまだ残っている」
二人の芸術家が「老い」を遠ざけたのはこの人並み以上の陶酔に浸っていられたからにほかならない。ふたりがもっとも恐れた「死」は、存在の否定であり、芸術はそこでは産みだすことができない。芸術は生への大きな刺激であり、生きることを可能にする偉大なものなのだ。
1961年、79歳のピカソは陶房の手伝いジャクリーヌ・ロック34歳と2度目の結婚をする。「画家とモデル」シリーズはなおも続けられ、そこに登場するのは奔放な女体とただそれを見つめるしかない老画家である。不能の老人となったピカソ。だがその制作はやむことがない。1968年の「347シリーズ」の銅版画に続き、死の前年1972年まで続く「157シリーズ」の銅版画が制作された。まだ終わりではない。これらの女性たちに加え、「ピカソとの17年」を過ごした詩人のジュヌヴィエーヴ・ラポルトの存在も浮上し、彼女は沈黙を破り著作を発表した。
文章ばかりになってしまいましたが・・・本当に考えさせられるゴヤとピカソの生き方・創作活動です。「まよなか科」のしめくくりは・・・もちろん、尊敬するピカソです。
フェルナンデ・オリヴィエ(Fernande Olivier)ピカソの最初の恋人と言われる。彼女が18歳、ピカソが23歳。