KODOMONO城の屋根を・・・
どうしようかと考えていましたが、このようにすることにしました。
木を積み重ねて高さを変化させ、そこにペットボトルを取り付けるという方法です。
屋根の構造を考えている時、ふとガウディの建築が思い浮かびました。
Antoni Gaudí
バルセロナ南西の商業都市レウスに銅板機具職の子として生まれたアントニ・ガウディ(1852-1926)は、 16歳の時、バルセロナ県立建築専門学校予科に入学する。当時、バルセロナは繊維などの新興産業によって大きく発展している最中であった。同時に多くのアナーキスト達が、スペインからの独立運動を繰り広げていた。アルバイトをしながら苦労して学校を卒業したガウディは、内装や装飾の仕事を手掛け始める。 そしてガウディの建築の良き理解者であると同時に、彼の生涯の友ともなるバルセロナを代表する資本家アウゼビ・グエルと出会う。パリ万国博に出品された手袋店のショーケースを見てガウディの才能を見て取ったグエルは、彼の想像力を引き出すかのように次々と斬新な計画を持ち掛ける。 グエル邸、グエル公園、コロニア・グエル教会など、ガウディの建築にはいくつもグエルの名前が冠してある。1883年、ガウディはサグラダ・ファミリア聖堂の主任建築家に任命される。以後、彼はこの建築の設計に壮年から晩年に掛けての40年以上を費やし、しかも1917年からは他のいっさいの仕事を断ってこれに専念している。
サグラダ・ファミリアの主任建築家として名声を得たガウディは、バルセロナとその近郊の多くの重要な建築物の設計を手掛ける。特に途中で建築が中止されてしまったが、コロニア・グエル教会地下聖堂は彼の最高傑作と言われている。一時、精神的に困難な時期を迎えたガウディは、自殺も考えるようになる。なんとか危機を乗り切った彼はしだいにサグラダ・ファミリアの設計に没頭するようになり、自ら閉居し些事に一切構わなくなる。1926年6月7日夕刻、ガウディはバルセロナ市内で路面電車にはねられる。学生時代はダンディなことで有名だった彼も、まるで浮浪者のような格好だったために病院に収容されるのが遅れたという。そして10日午後5時、市内サンタ・クルース病院で死去する。遺体はサグラダ・ファミリア聖堂に埋葬される。「悪魔か、天才か」。ガウディの卒業設計<大学講堂>を見たビリャール教授はこうつぶやいたという。
サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪聖堂)(1883-)
人々の現世の罪を購うために、聖家族に捧げられた大聖堂である。 ビリャールが無償で設計を請負い、1882年に着工したが意見の対立から辞任、翌83年よりガウディが引き継ぐ。 現在、生誕(東面)と受難(西面)の二つのファサードと、それぞれの四本の鐘楼、それに後陣が姿を現しつつある。しかし人々の浄財のみで建築されているために工事はしばしば中断し、完成するまでにあと100年かかるのか、200年かかるのか、誰にも分らない。 計画では、今ある生誕と受難の二つのファサードに加え、南面に栄光のファサードが作られ、ラテン十字平面を持つ聖堂の中央には、高さ150メートルの尖塔がそびえ立つ。
現在作っているKODOMONO城も、今後永遠に作り続けるのもおもしろいのではと考えているところです。
油絵メンバーの作品が大きく変化しています。
もう一人のメンバーの作品・・・生まれて初めての油絵がまもなく完成しようとしています。
染色工房BENTEN-DOにストーブを搬入しました。