きらっ(15) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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ピンキラッ


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人気グループだった「ピンキーとキラーズ」が37年ぶりに再結成し、7月30日、都内のホテルでディナーショーに出演した。270万枚を売り上げた68年「恋の季節」発売から40年となり、ピンキーこと今陽子(56)は「同窓会気分で再結成を決めました」。メンバーのジョージ浜野(67)エンディ山口(63)ルイス高野(61)パンチョ加賀美(64)は健在で、今は「当時は2時間の睡眠で頑張った。1人でも『恋の季節』を歌うけど、やっぱりオリジナルで歌うと気分がいいわ」。来春までの期間限定で、9月16日にNHK「歌謡コンサート」に生出演する。

トレードマークのダービーハットが揺れる。ピンキーのステップに合わせ、キラーズのコーラスが響いた。昭和40年代の歌謡界を席巻した「ピンキラ」が、37年ぶりに戻ってきた。

 紅一点のピンキーこと今は、結成当時は10代だった。「40年たってセクシーになりました。ピンキーは小指って意味ですけど、どちらかというと親指って感じですね」と笑いを誘った。43年発売のデビュー曲「恋の季節」は翌年までに270万枚を売り上げ、オリコン史上最多となる計17週にわたって1位を獲得。最盛期は1日で北海道から沖縄まで飛びまわり、メンバーの平均睡眠時間は3時間。今は「私は30分とか1時間くらいしか寝られなかった」という。46年にグループ解消。一時期は今以外のメンバーが「ニューキラーズ」として活動したが、その後は別々の道を歩んだ。今は「解散した時が20歳。(ソロ活動をしたかった)私が若かったんです。他のみなさんは家族がいて、守らなきゃいけなかった」と振り返った。が、5歳年上のルイス高野(61)は「ピンキーはいい娘。僕らはヒマがあったら寝ていたけど、彼女は音楽の勉強をしていた」とフォローした。紆余曲折を経ての再結成。目指すは結成年から4年連続で出場した「紅白歌合戦」。今回は来春までの期間限定活動で、9月16日には「歌謡コンサート」に生出演することも決まった。NHKつながりで、年末の大舞台も現実味を帯びる。この日は、尾崎紀世彦(65)、黛ジュン(60)とともに「サマーディナーショー タイムスリップ! ’70s昭和のアイドル」に出演。リーダーのジョージ浜野(71)は28日に仕事先のフィリピンから帰国し、「集まって歌うのはきょうが初めて。ぶっつけ本番です」と苦笑いを浮かべながら、美しいハーモニーで500人を魅了。ブランクを感じさせず、息のあったところを見せた。


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The Japan Record Awards 日本レコード大賞

日本レコード大賞は、1959(昭和34)年が第1回。以降その年度を強く反映または代表する楽曲に贈られる賞で「紅白歌合戦」と並んで大晦日恒例の音楽イベントである。

アメリカの音楽界最大のイベント「グラミー賞」を見学した日本経済新聞出版部長、後に音楽評論家となった平井賢と作曲家の古賀政男は帰国後服部良一を加え、日本版のグラミー賞という発案で「日本レコード大賞」を企画した。まず主催団体として昭和33年12月に作曲家協会が設立され、当初の会員総数86名が翌34年1月第1回の理事会を開いた。しかしレコード大賞は必ずしも歓迎されて華々しくスタートしたものではなかった。吉田正によれば、作曲家協会は貧乏だったから、どこも相手にしてくれず、大賞の楯を作る金すらなかったという。また難問は金銭面だけではなかった。レコード会社はどこも作品にランク付けをするのかと反発、したがってレコード大賞と銘打ちながら、協賛してくれたのはビクターだけだった。更に放送局の協力も中々得られずテレビ局で理解してくれたのは東京放送(TBS)だけであった、この局はラジオ局を併設していたからでレコードを使って放送するということから、レコードが大事であるということを理解していた。しかし他のテレビ局はレコードが音楽の基本となるという考え方が当時はまだなかった。結局資金は東京放送が60万円、レコード各社はそれでも最終的に各社が3万ずつ、さらに雑誌「平凡」「明星」が各3万ずつ負担した。ちなみに大賞の楯は東郷青児のデザインによる漆器製で、それだけで当時60万円もしていた。