土用の丑(2)
■万葉集巻十六/大伴家持
石麻呂に 吾物申す 夏痩せに よしと云う物ぞ うなぎ取り召せ
■ちなみに、土用の丑の日に食べるものは鰻でなく「う」の付くものでいいのだから、うどんでも、うどでもいいのである。主に鰻を食べるのが主流なのは、ほとんど習慣に近いものになっているからである。なお、最も脂が乗っている鰻の旬は、産卵前の秋である。土用の丑の日がある初夏あたりの鰻は脂がかなり落ちており、身も淡泊である。一説に、鰻屋が源内に相談を持ちかけたのは夏に売れない鰻を何とか売るためであったとも言われている。ただ、鰻にはビタミンB類が豊富に含まれているため、夏バテ、食欲減退防止には効果的であり、そういった面から鑑みると、夏の時期に鰻を食べるのは実に理に適った習慣であるともいえる。
■「ひつまぶし」は、明治末期蒲焼にした鰻をのせたご飯を大きなお櫃に入れてお座敷にて女中さんが小分けしてお客様に召し上がっていただいていたのが始まりです。「ひつまぶし」は、あつた(熱田)蓬莱軒の登録商標(1987年)です。あつた(熱田)蓬莱軒は、創業以来「ひつまぶし」の味を名古屋の地で守り続けています。一膳目はそのままうなぎの味を・・・二膳目は薬味を加えて・・・三膳目はお茶づけに・・・最後はお好みでどうぞ。
■「ひつまむし」の名称もあり、地元では両方の呼び名が通用する。なお、「まむし」は関西を中心とした方言で鰻飯をいう。
■喜田川守貞が著した江戸時代の百科事典的風俗誌である『守貞漫稿』には「鰻飯、京坂にて、まぶし、江戸にて、どんぶりと云ふ。鰻丼飯の略なり」とある。しかし、関東の鰻丼と大阪の「まむし」は、実は同じではない。関東では、蒲焼がご飯の上に乗っている。一方の「まむし」は、蒲焼がご飯の中にはさまれている。だから、蒲焼きが温かいご飯で蒸されるので「まむし」といわれたり、あるいは、ご飯が鰻にまぶしてあるので「まぶし」といわれたようである。もちろん今では大阪でも、蒲焼きはご飯の中だけではなく、ご飯の上にものっているのが多い。
■その鰻丼は、江戸で始まったといわれている。江戸時代に、日本橋で芝居小屋を経営している大久保今助が、幕間のわずかな時間に鰻を食べようとしたが、冷めていておいしくない。そこで、お重のご飯に蒲焼きをはさんで食べたら、温かくタレがしみこんで大変おいしかった。これが発祥といわれている。だから、東京では、鰻のことを今でも「今助」と呼ぶところもあるそうだ。こんなふうに当初は江戸でも、蒲焼きをご飯の中にはさんでいたらしい。それが、関西に伝わって、「まむし」と呼ばれたのだという。でも、その辺の詳しい事情は正確にはわからないようだ。ちなみに、和歌山では、まむしどんぶり。名古屋では、まぶしめし、と呼ばれていたという。
■関西と関東で、鰻丼と「まむし」の呼び名以上に違うのが、鰻の調理方法である。一言でいうと、鰻を「背開き」にするか「腹開き」にするかの違い。江戸前では、「背開き」。鰻の腹を割くのは、武士の切腹のイメージにつながるので縁起が悪く、武家社会の江戸では、「背開き」にしたのだといわれている。頭を落として竹串を打ち、白焼きにしてから蒸しにかけ脂肪を抜いて、タレを付けて焼く。一方の関西では腹開き。頭を付けたまま金串を打ち、蒸さずに白焼きし、タレを付けて焼く。関東風は、一度蒸してあるので、少し油が抜けあっさりめ。関西風は、こってり油がのっている。
■蒲焼(蒲焼き、かばやき)は、魚を切り裂いて骨を除き、たれをつけて焼く料理。たれをつけないで焼くものを白焼という。いくつかの説があるが、三田村鳶魚が提唱した以下の説が最も有名なもので通説となっている。江戸幕府が出来た当時の江戸は遠浅の海と広大な湿地帯が江戸城の前に広がっていた。江戸の街を整備する必要性から様々な土木工事が行われたが、初期の埋め立て工事によって現在の皇居外苑、馬場先門周辺が沼になり、ここへウナギが棲みつくようになった。当時は土木、建築工事のために大勢の人夫が働いており食料の供給が必要だったため、沼のウナギを獲ってぶつ切りにして串に刺し味噌をつけて焼いたものが屋台などで売り出されるようになった。このウナギの味噌焼きの形が蒲の穂に似ていた事から「蒲焼」(がまやき)と呼ばれるようになり、後に発音が変化して「かばやき」となった。当時、脂が強いウナギは、肉体労働者などには喜ばれるものであったが、一般には下品なものとされていた。江戸後期に、ウナギを開いて骨を除いて焼き上げるようになり、また、蒸して強い脂を抜き、味付けもこの頃普及し始めた醤油や砂糖を使ったものに変わっていった。現在の蒲焼はウナギの焼き物であるという点を除いて、当初のものとはまったく別の料理であるが、名称のみが残されたことになる。なお、江戸前という言葉があるが、この言葉は上記のウナギの味噌焼きに冠せられたのが最初であり、江戸城の前の沼で取れたウナギを使っているという意味で用いられた。また、さいたま市の浦和が蒲焼発祥の地であるとする説もある。