ぎょ(694) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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修学旅行魚(1)


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何年ぶりだろうか・・・修学旅行でヒロシマを訪れた。


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■広島城(別名:鯉城・在間城)

戦国末期~江戸期の城。太田川が分岐してできたデルタの平地に築かれた平城で、中国地方屈指の名城でした。戦国大名毛利氏は、元就のとき安芸国吉田荘(広島県安芸高田市吉田町)の郡山城にいましたが、山間部であったため交通・戦略上の良地を求めて広島に進出したものです。1589(天正17)年毛利輝元によって起工され、1592(文禄元)年に城郭の体裁が整い、1599(慶長4)年に完成しています。


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城下町の整備は普請奉行・穂田元清、二宮就辰のもと出雲の商人・平田屋惣右衛門らを招いて行われたと云います。輝元は1591(天正19)年1月に吉田から広島に入城し、地名を「廣島」と名づけ、九ヶ国(安芸・備後・周防・長門・出雲・石見・隠岐・備中半国・伯耆3郡)を支配していましたが1600(慶長5)年関ヶ原の戦いの敗戦によって防長二ヶ国に減封されました。 かわって福島正則が入りましたが、正則も1619(元和5)年無許可修築のかどで除封(川中島に改易)され、同年浅野長晟が入り12代継いで幕末に至りました。 天守閣は1931(昭和6)年国宝に指定されましたが、1945(昭和20)年8月6日(月)米軍投下の原爆で全壊しました。現在の天守閣は、1958(昭和33)年春に以前と同じ形に外観復元されたものです。広島市中区基町(もとまち)21番 1号にあります。現在は(広島)中央公園の中に包括されています。


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■鯉城について

語源は正確にはわかっていないが、この付近がかつて己斐浦(こいのうら)と呼ばれており、己斐が鯉に通じることから、そう呼ばれるようになったというのが有力な説で、鯉城の他、在間城、当間(たいま)城ともよばれていたそうです。


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■己斐の地名伝説

その昔、神功皇后が西征の途上、まだ名もない己斐の入り江にお着きになり、松山(今の旭山神社)に登って休息されたとき、県主が大きな鯉を献上した。皇后は大変喜ばれ「おお、鯉々々」と云われ、それからこの村を「鯉の里」と云うようになったと伝えられる。鯉が己斐の字句に変わったのは、大化の改新(645)ごろ、諸国の地名を二字に統一したときに当て字を使ったものだと云われている。なお、船が到着した場所には「御船着」という地名が現在も残っている。この「鯉の町」から、広島城も鯉城と呼ばれ、広島の代名詞のように用いられてきた。広島カープ球団創設の時も、当然の如くカープ(鯉)のニックネームが採用された。なお、当初はCARPSとSがつけていたが、CARP(鯉)は単複同一でSが付かないことが分かり、あわててSが無くされたことも思い出される。


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バスガイドさんの話では、そごう広島店の壁面装飾は「鯉のうろこ」をイメージしたものだそうです。


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広島は「鯉(恋)」の街です。


ひろ9