南天の魚(5)
■天見小学校百周年記念誌「天見の史跡」史話より
京都を起点とする東高野街道と、大阪高麗橋から堺を経て南下する西高野街道は、長野で合流し、三日市、天見を通り、紀見峠を越えて紀州路へと入る。天見を通るこの街道は、民衆の高野もうでの道であったが、大阪との通商の道でもあった。
■天見流谷
天見は古来より交通の要衝であった。峠の周辺からは弥生土器や中世の土器が出土することから、その時代にすでにここで生活が営まれていたことをうかがわせる。その天見の中でも最古の集落とされる流谷(ながれたに)。天見流谷は、大阪から和歌山県橋本市に至る国道371号の西側に位地し岩湧山、唐久谷に通じている。この集落は源氏に敗れた平氏の落ち武者が逃れて住みついたといい、また後述する十三仏の伝説からキリシタンが隠れ住んだともいう、草深い地域でありながら歴史は古く、隠れ里としての伝説が色濃く残っている。延元の頃(1336~1340)の僧、法印賢覚が流谷八幡の境内に萱葺の温泉浴室を建て、付近から湧出する鉱泉を汲み、薬草を混合して沸かし、病弱に苦しむ老若男女を救った。という記録はこの近くの旧家の文献に残っている。
■天見温泉
寛延3年(1750年)大火により焼失、村の庄屋等によって再建が試みられるが実らず、昭和8年南海電鉄によって高野線天見駅前に南天苑の前身として復興された。太平洋戦争中に休止を余儀なくされたが昭和24年に天見温泉南天苑として開業した。戦後間もなくは数件の温泉旅館が相次いで営業したが、現在は「南天苑」1軒だけが残り、天見温泉の伝統を伝える。堺・大浜の汐(潮)湯の家族風呂として営業し昭和9年の室戸台風で倒壊したため、その材料を使い、そっくりそのままの形で、翌、昭和10年ごろに移築した「南天苑」は、「辰野金吾」が設計したとの説がある。明治建築研究会・柴田正巳代表らの手によって確実な資料のもとに、南天苑が堺大浜潮湯別館を移築したものであり、設計者は、東京駅・日本銀行本店・中之島中央公会堂などを設計した明治時代の名建築家・辰野金吾の設計であることが判明しました。潮湯別館家族湯・設計:辰野金吾/竣成1913年(大正2年)、天見温泉に移築竣成1935年(昭和10年)。
「東京駅」
「日本銀行本店」
「中ノ島中央公会堂」