ぎょ(355) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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魚の文学散歩(うぉーきんぐ)再び⑤


すのうち1


■洲之内徹 1913年愛媛県松山市に生まれ、美術学校進学を希望したが父親の同意を得られず、多少実用性のある建築学科ならいいだろうということで、東京美術学校建築学科に入学する。非合法下の左翼運動に熱中して中退、検挙、投獄、転向という経過をたどり、その経歴を買われて中国大陸で特務機関員として働くことになった。このような屈折した挫折体験は、彼をすっかり政治嫌いにし、個々の人間や美だけしか信じないという、心の奥深くに虚無をかかえた人間にしてしまったようだ。戦後は小説家志望で、芥川賞候補になったほどの文才の持主だが、絵にとりつかれてしまった。『肉体の門』で知られる三重県出身の作家田村泰次郎が経営する現代画廊で働いたのがきっかけだった。二年ほどで田村が手を引いた後、洲之内がこの画廊を引き継いだ。画廊の名は現代画廊のままだったが、田村の「現代」はカレル・アペルや「ミシェル・タピエの推す現代日本15人展」など、当時最先端の抽象絵画であったのに対し、1961(昭和36)年10月の洲之内の最初の企画展は「萬鐵五郎展」、1968(昭和43)年に銀座松坂屋裏に移ったときは「靉光画稿展」だった。日本の近代美術の上できわめて重要なこれらの画家に、早くから注目していたのは今泉篤男や土方定一らごく少数の人々であったことを思えば、洲之内徹の批評精神のあり所が推測されよう。洲之内コレクションは、洲之内徹が画廊経営のなかで扱った作品のうち、最後まで手元に残した作品群で、彼の没後、宮城県美術館にまとまって収蔵されることになった。それらの作品について、洲之内は随想「気まぐれ美術館」のなかで縦横に語り、またそれが単行本にも収録されている。


すのうち2


■洲之内徹は画廊経営者であり、美術批評家であり、随筆家であるという多面性をもった、いわば多重人格者である。しかし、この多面性は決して矛盾するものではなく、洲之内徹という一個の人間のそれぞれの側面であった。というより、そのどれかにおさまることのできない、つまり一筋縄でいかない人物だったという方がよいだろう。気に入った絵は人手に渡すのが厭で、自ら愛蔵するという一風かわた画商であった。洲之内にとって、画廊経営というものは、好きな絵や人間に出会うための一種の方便であったといえるかも知れない。好きな絵に出会うということは、全人間的な価値観がかかわる、すぐれて批評的な行為である。彼はそれを生業(なりわい)とし、その経験を「気まぐれ美術館」という文学的行為によって表出した。


すのうち3


■「気まぐれ美術館」は、洲之内徹が『芸術新潮』1974年新年号に連載をはじめた美術随想のタイトルである。それは絵についてふれながら、絵とは直接関係のないことを自由に書きたいという洲之内の意図によるものだった。絵との出会い、人との出会い、旅、記憶、日常等々、美術をめぐって話題は自在に出没し、洲之内徹という独特の個性的人物の感情や思想をちりばめた言説の世界に読者を巧みにひきこんでいく。この随想は、根強い読者の支持によって14年間165回に及び、1987年11月号をもって、彼が脳梗塞で亡くなったため、ようやく終止符が打たれた。洲之内は、この連載がはじまる以前に『絵のなかの散歩』(1973)という随想集を出版しており、雑誌の連載中に『気まぐれ美術館』(1978)、『帰りたい風景』(1980)、『セザンヌの塗り残し』(1983)、『人魚を見た人』(1985)、没後『さらば気まぐれ美術館』(1988)、さらに『洲之内徹の風景』(1995)という7冊の随想集が新潮社から単行本として刊行された。


すのうち4


■洲之内徹『セザンヌの塗り残し』(『気まぐれ美術館』シリーズ)より

高松から帰って二、三日後に、私はクラさんに会い、はじめにビヤホールでビールを、次にコーヒー屋でコーヒーを飲んだ。クラさんを紹介すると長くなるから、いまは、ここ数年安井賞展に続けて出品している若手の画家というだけにしておこう。そのクラさんが、コーヒー屋を出てから有楽町の駅まで歩く途中で、私にこう言った。
「この前の、セザンヌの塗り残しの話、面白かったですね」
「僕が言ったの?何を言ったっけ」
いつも口から出まかせに思い付きを喋っては忘れてしまう私は、すぐには思い出せなかったが、言われて思い出した。セザンヌの画面の塗り残しは、あれはいろいろと理窟をつけてむつかしく考えられているけれども、ほんとうは、セザンヌが、そこをどうしたらいいかわからなくて、塗らないままで残しておいたのではないか、というようなことを言ったような気がする。
そして、言ったとすれば、こういうふうに言ったはずだ。つまり、セザンヌが凡庸な画家だったら、いい加減に辻褄を合わせて、そこを塗り潰してしまったろう。凡庸な絵かきというものは、批評家も同じだが、辻褄を合わせることだけに気を取られていて、辻褄を合わせようとして嘘をつく。それをしなかった、というよりもできなかったということが、セザンヌの非凡の最小限の証明なんだ。


すのうち5


麻生三郎さんが描いた晩年の洲之内徹さん。


すのうち6


洲之内徹さん制作の版画。


すのうち7


■美大をめざした頃の洲之内徹さん略歴

1929[昭和4年]中学4年生の頃、美術部へ移り、美術学校へ行く決心をする。油絵科志望だったので夏休、冬休に上京し、川端画学校でデッサンを習う。浅草通い始まる。建築科を条件に父に美術学校受験を許可してもらう。
1930[昭和5年]3月、東京美術学校の入学試験を受けるため上京。松山中学の先輩で建築科を卒業したばかりの山本勝巳(俳優・山本学、圭、亘の父)の下宿(大久保百人町)へ寄寓。川端研究所で受験のためのデッサンにはげむ。4月、建築科入学。本郷の丸山福山町の叔母の家にいた後、東中野桜山に下宿。

1931[昭和6年]プロレタリア美術家同盟に加入。西常雄、上野誠らと共産青年同盟の美術学校細胞を結成。深川東大工町(現・江東区白河4の2の11)の同潤会アパート第5号館4階に住む。
1932[昭和7年]『アトリエ』5月号に「美校卒業制作展・建築・工芸」という展評を執筆。7月、アパートで特高に逮捕され、初め扇橋警察、次いで厩橋警察に留置される。8月中ごろ釈放され、母の監視つきでまっすぐ松山へ戻る。父は当時美術学校の校長をしていた和田英作(夫人が愛媛県出身という縁があった)に穏便な処置を請願。しかし効なく、9月になって建築科除名の通知を受け取る。松山でプロレタリア文化聯盟の愛媛支部結成などの活動を始める。日本農民組合(全国会議派)の運動に参加。


すのうち8


すのうち9


すのうち10