どぜう(4)
■「出雲」 は安来節の生みの親(安来には泥鰌博物館があり、また養殖も盛んで一大泥鰌産地である)であり、「柳の下の泥鰌」とか「二匹目の泥鰌」、あるいは「泥鰌髭」とか結構我々の生活の中に入り込んでいました。江戸時代の末期にその原型ができたと言われる安来節。春の花見シーズンに開催される「お糸まつり」という名は、安来節の知名度を全国区にまで押し上げました渡部お糸を称えたものだそうです。
■安来節の起源は、今をさかのぼること三百余年前、時は元禄太平の世、ちまたでは大衆文化が花開き、歌舞音曲の流行華やかなりし頃。その頃の、出雲の国の安来の郷の様子は、波静かなる中海に面した天然の良港で、奥出雲地方で採れた米や砂鉄を搬出するための物資の集散地として繁栄をきわめていました。往時は全国津々浦々を巡る北前舟等の寄港に伴い船乗りの出入りが激しく、彼らを通じての民謡の交流も盛んで、「佐渡おけさ」「追分節」等々が歌われていたようです。
■おさん節の誕生 そんな折、船乗達で賑わう安来の花街には「おさん」という美声の芸妓がおり、これらの民謡をベースに自分でアレンジいたしたものを「おさん節」と称して節回し面白く歌っていたものが、今日の安来節の原形だといわれています。文明開化の明治になって、安来の郷の研究熱心な人々の手によって「おさん節」に研鑽労苦が重ねられ、未完成であった安来節の姿が徐々に整えられていきました。そして、この安来節は出雲地方で大流行し、ついには明治44年に正調安来節保存会が創設され、名実共に安来節を不動のものにしました。
そして大正時代になると、「渡部お糸」(当市の名誉市民)という芸達者な女性が、三味線の名人「富田徳之助」と共に一座を組み、全国巡業回った際、行く先々で大好評を博し、その結果として一介の地方民謡だった安来節を全国区の地位にまで押し上げる原動力となりました。そしてついには、当時の芸能人の憧れの的であった東京鈴本亭の舞台に立ち、大衆芸を芸術の域にまで高めました。お糸一座の活躍はまだまだ止まるところを知らず、東京・大阪に安来節の上演専門館まで誕生させたかとおもいきや、朝鮮半島・台湾・中国東北地方にまで遠征し、日本だけでかくアジアにも安来節を広めました。
■「どじょうすくい踊り」 この安来節と共に生きてきたのが皆様お馴染みの「どじょうすくい踊り」。「あら、えっさっさ~」の掛け声とともに始まるこの踊りの由来は、江戸時代末期にまでさかのぼります。いつの時代でも「飲ン兵衛」というものが居り、安来の郷でもご多分に漏れず、ドブロク徳利を後生大事に抱えた「飲ン兵衛」達が、近くの小川で捕ってきた泥鰌を肴にいつもの酒盛りを始めた時、ほろ酔い気分も手伝ってか、その泥鰌を掬う仕草を安来節に合わせて即興的に踊ったのがその始まりだといわれています。初めは野良着姿の野暮ったい「どじょうすくい」踊りでしたが、長い歳月を経てリズミカルに形作られ、お糸一座の活躍とも相まって次第に大衆の生活(宴席とも言う)の中に溶け込んでいき、今では「安来節」と言えば「どじょうすくい」を連想されるくらい、切っても切れない、一心同体の間柄になっています。全国にその名を知られ多くの方々に親しまれている「安来節」。それは、安来の人々が育んできた暮らしの唄で、歴史の変遷を経て来た現在の安来市にその軽快なリズムが流れるとき、米や砂鉄の積み出し港として賑わった往時のたたずまいを偲ぶことができます。
■足立美術館は、安来市出身の実業家「足立全康」氏が個人蒐集した美術コレクションを基に、昭和45年に創設された美術館。横山大観コレクションをはじめとする名画の数々に、海外の雑誌で日本一の庭園と称された枯山水式の庭園が、常に来館者を魅了し続けています。
■横山大観 小川は滝の水が合流して川幅を増し、断崖の下を流れていきます。途中に野猿が群れて遊ぶ姿、薪を背負って家路につく樵などの姿に、のどかな山の暮らしが描かれています。松山に隠れた川は、筏師の乗る川とあわさり大河となり、やがて大橋の下を流れ、大海へと注ぎ込みます。浜辺では漁師たちが網をひき、遠くに荒海に削られる離れ島が見えてきます。大海には潮が流れ、波頭が立ち、荒れ狂う中を飛龍が天空へ昇り雲となります。これによって水の生々流転を描いた40メートルに及ぶ壮大な画巻は、終りとなり最後を閉じるにあたっては、「大正癸亥八月大観作」「鉦鼓洞」の朱文方印が見られます。この作品は、昭和42年6月15日、国の重要文化財に指定されました。(東京国立近代美術館蔵)
■河井寛次郎 安来生まれの陶芸家(1890年~1966年)。旧安来市の名誉市民。生涯一職人であることに誇りを持ち、文化勲章、人間国宝、芸術院会員の推薦も辞退し、作品に署名せず、ひたすら自らの創作活動に打ち込んだ清々しいまでの潔さ。まさに「歩いた跡が道になる人」だったそうです。作品並びに人となりに接することの出来る所は、島根では、ここ安来市の足立美術館のほか、島根県立美術館などでご覧いただけます。
河井寛次郎が「こよなく愛した」という生まれ故郷である島根県安来市の老舗『浜重』の銘菓「紅梅」が紹介されている。この「紅梅」はその色が寛次郎の好んだ辰砂の赤を連想させる。現在はさ3代目の濱田徳雄さんが継いでいるというがその父親の喜三郎さんが、寛次郎から激励されてつくりだした菓子だという。「私は辰砂の赤を出すのに苦労をした。喜三郎、おまえも、この色を出すためには、もうひと苦労ふた苦労しないといけない。私の辰砂の色を、お前の菓子でも表現してくれ。」
2年後の夏、喜三郎さんができあがった「紅梅」を京都の寛次郎のところに持参したところ、寛次郎は「これや、これや。これが私が見たかった辰砂の色や!」といって涙を流しながらひどく喜んだというのである。このこうばい「紅梅」、1個80円だという。おそらくとても良心的な菓子補なのだろう。








