ぎょ(218) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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どじょう(3)


やながわ1


■「柳川鍋」 開いたドジョウと笹掻きにしたゴボウを味醂と醤油の割下で煮て、卵で閉じた日本料理の鍋料理。一緒にネギやミツバを用いる場合もある。江戸時代にはドジョウもゴボウも精の付く食材とされていたため暑中に食べるものとされていた。俳句の世界では「泥鰌」は夏の季語(「泥鰌掘る」は冬の季語)となっている。ドジョウを開かずにそのまま使ったものは「丸鍋」と呼んで区別する場合もある。丸鍋にはゴボウでなくネギ、また醤油でなく味噌と使い分ける店も多い。肉類などを柳川と同じように、笹掻きゴボウと共に甘辛く煮て卵で閉じたものを「○○の柳川」あるいは「柳川風」と呼ぶことも一般的である。江戸時代後期の天保頃に日本橋横山町の柳川という料理屋で創始されたという説が一般的である。他にも、福岡の柳川産の土鍋を使ったという説、鍋にドジョウを並べた姿が柳の葉に似ているからという説がある。由来について福岡県柳川市と特に関連はなく、柳川市でも柳川鍋を食べる習慣はなかったが、近年では柳川市周辺で柳川鍋を出す店が増えてきている。


やながわ2

■「東京」 における泥鰌は「泥鰌鍋」や「柳川」、「かば焼き」あたりが一般的な食べ方であるが、味噌汁仕立てにした「泥鰌汁」も中々のものである。「泥鰌鍋」はまるのままの「まる」と背開きにし骨を外した「ぬき」があるが本来の泥鰌を味わうのであれば「まる」がお薦めである(ちなみに泥鰌の骨は鰻と同様三角であるので割くには多少コツがいる)。浅い土鍋に下拵えした泥鰌を並べ割り下を入れ火に掛け煮上がる寸前にたっぷりと刻み葱を加える。クーラーのない部屋でこれに一味や七味を利かせて汗をかきながら食べるのが本来の食べ方である(鰻は山椒が合うが泥鰌には唐辛子の方が合う)。から揚げもあるが、油で揚げてしまうとせっかくの持ち味であるヌルヌル感がなくなり泥鰌らしくなくなってしまう。


やながわ3

■関が原の戦の折にも東軍の武士達は泥鰌を捕まえ食べていたという、対する西軍はイワシか何かを食べていたようで、スタミナの点で東軍の勝利となった、との逸話もある。


やながわ4

■江戸で泥鰌鍋や泥鰌汁を売るようになったのは、文化元年(1804)に、浅草駒形の越後屋が「泥鰌料理」の名前で開業したのが元祖だといわれています。骨を抜いた泥鰌を使うようになったのは、天保の初め(1831)以後で、元祖は、南伝馬町の萬屋とか、本所石原の石井という鰻屋とか諸説があるようです。これに鶏卵を使用したのが、横山町の「柳川」という店だったので、そこで出す土鍋煮を「柳川鍋」というようになったとの説と、九州筑後柳川で造られた鍋を使ったからという説があります。柳川鍋は、肝臓病の薬になるといわれたようです。泥鰌を売り物にしている店は、紺地に白で「どぜう」と染め抜いた暖簾(のれん)を掲げていました。越後屋は、開業当時には「どじやう」と書いていましたが、江戸の大火によって店が類焼し、四文字では縁起が悪い、祝い事や歌舞伎では奇数の文字が使われているというので、三文字か五文字で表現したいと考えた末、三文字の「どぜう」になったと伝えられています。その結果、店が繁盛したので、他の店でも使うようになり定着しました。「どぜう」は、由緒ある素晴らしい造語です。


やながわ5


■「駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代です。初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客様で繁盛したと言います。


やながわ6


初代が始めたどぜう鍋・どぜう汁に加え、二代目助七がくじら鍋を売り出すなど、商売はその後も順調に続きました。嘉永元年(1848年)に出された当時のグルメガイド『江戸名物酒飯手引草』には、当店の名が記されております。


やながわ7


やがて時代は明治・大正・昭和と移り変わり、関東大震災、第二次世界大戦では店の全焼という被害を受けます。しかし多くのお客様のご支援と先代の努力もあって、江戸の味と建物は現在の六代目へと引き継がれております。仮名遣いでは「どじょう」。もともとは「どぢやう」もしくは「どじやう」と書くのが正しい表記です。それを「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案です。
文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらったのです。これが評判を呼んで店は繁盛。江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたといいます。 200余年の歴史を刻む大事なのれんです。


やながわ8


■「駒方どぜう」や「高橋伊セ喜」「浅草前川」など隅田川界隈にはこれを看板にかかげている店がいくつかあるが、多くは「どぜう」の表記が使われている。「どじょう」を旧仮名遣いで書けば正しくは「どぢゃう」と書き表すべきだが「どぜう」の表記となっている。これは日本人特有の「四の字嫌い」にからきている。「どぢゃう」では字数が四(死)文字になってしまうのであえて「どぜう」としたのである。


やながわ9

■泥鰌を食べるのは日本ばかりではない、お隣韓国(主に釜山周辺)にも泥鰌鍋(泥鰌湯(チュオタン)という)はある。もっとも日本の「泥鰌鍋」とは全く違い、どちらかと言うとエスニック風スープ仕立てである。


やながわ10

■また中国の故事「狭門記」に、ある修行僧が欲望に負け精進で禁じられている泥鰌を食べる話がでてくる。鍋に豆腐と泥鰌をいれ火にかける、暫くすると熱さのため泥鰌が豆腐の中に潜り込んでしまい外見上は豆腐料理にみえる、これで上の者に気づかれる事なく泥鰌を食べたということである。


やながわ11

■昭和30年代からの高度経済成長に歩調を合わせるように食糧増産か何か知らぬが大量の農薬が使われ出した。その結果泥鰌ばかりでなく同じようにいくらでもいたザリガニやアメンボ、ミズスマシやタガメなどの水棲生物があっという間に姿を消してしまった。


ザリガニ


■現在我々の口に入るものは養殖物か輸入物であろうが、かつては水田や小川でいくらでも捕れたのである。水田に水がはられ田植えも終り夏を迎える頃、用水堀から水田の中にたくさん入り込んできた。これを夜になってからカーバイトランプの灯りを手に、眠っている泥鰌を縫い針を櫛のように並べた小さなヤスで突くのである。これを関東では「泥鰌打(ぶ)ち」と言い夏の夜の風物詩であったが、今となってはカーバイトのあの独特の臭いとともに遠い記憶の世界となってしまった。あるいは、水田わきの用水路などに竹で編んだ細長い樽のような漁具を沈めておくと、泥鰌や鰻、小鮒などたくさん入ったのである。また冬場など水田や堀に水がなくなる季節でも、泥の中を掘り返すとやはり泥鰌はいるのであった。俳句の世界には「泥鰌掘る」という季語(11月、泥鰌鍋は7月の季語である)もあるようにポピュラーなものであったのである。(同じように川底の泥の中に隠れている鰻を“鰻鎌”という特殊な漁具で捕る「ウナギ掻き」という漁法もあった)


やながわ12