ぎょ(184) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

ガラスの魚(1)

布の次は・・・「ガラスのうさぎ」というのはあったけど、「ガラスの魚」というのは???


ななこ1


我が国のカットグラスは、正倉院にある「白瑠璃碗」をはじめ、古代に属するものは何れも舶来のもので、日本人の手によって製作された歴史はずっと新しく、近世に入ってからのことです。天保5年(1834)加賀屋久兵衛が、江戸大伝馬町で金剛砂を用いてガラスを彫刻し、切子細工の法工夫したと伝えられています。これが我が国におけるカットグラスの始まりです。現存する加賀屋の引札(一枚刷りカタログ)には和物・唐物・蘭物が入り混じって描かれていて、カットグラスの製品も多く、未だ鎖国下の我が国ではあったが、オランダとの貿易によって、カットグラスが輸入され、加賀屋の製品にもその意匠にヨーロッパの影響を受けたものが多く見られます。そして、このカットグラスに対して「切子」の言葉が用いられ始めたのは18世紀末頃であり、天明8年(1788)刊の「蘭説弁惑」には「食盤の上におく硝子きりこ様のしほ入れ」という説明があります。また、広辞苑(新村出編)には、きりこ〔切子〕の項に、①四角な物の、かどかどを切り落とした形②ガラス(切子硝子)カット・グラスに同じとしてあります。


ななこ2


江戸時代後期に製作された江戸切子は、薩摩切子と共に、江戸期のすぐれたガラス工芸品として現存しています。しかし、この二者にはその発生と製造の経過に、明らかな相違がみられます。即ち、薩摩切子の場合、藩主島津斉彬(1809~58)の手厚い保護のもとに、藩の事業として製作されたもので、当時としては最高の研究と開発の結果出来た美術工芸品であります。これに対して、江戸切子はいわば庶民の手によって、その採算の枠の中で製作されたもので、明治維新の政治的改革にも影響を受けなかったばかりか、明治初期に政府が欧米の文物の導入に積極的な方策をたて、模範工場を指定した際に、品川硝子製造所(1876)の名の下に、ヨーロッパの新しい技法が導入され、切子については明治15年(1882)に、英人技師エマヌエル・ホープトマンによって、伝習生に教えられたので、江戸時代の切子の伝統は絶えることがなく、近代工業の要素を取り入れることになり、今日まで長く存続する基礎を作りました。ちなみに、薩摩切子は、藩主島津斉彬の死(1858)と薩英戦争(1863)の戦火によって、ガラス工場は焼滅し、その伝統を伝えるものはなくなりました。従って、江戸切子は、我が国に現存する貴重な江戸時代の伝統工芸品の製作技法と言えます。


ななこ3

加賀屋の引札に掲載されているカットグラスの切子模様は、普通魚子(ななこ)と呼ぶものが多いです。同時代に作られた薩摩切子では同じ切子を霰(あられ)と呼んでいます。この魚子切子は、江戸切子の典型的な模様でありますが、これはまたイギリスやアイルランドで18世紀から19世紀にかけての典型的なカット模様でもありました。ちょうどその頃、それらの国々の製品が数多く我が国に入って来ていることから考えて江戸切子のルーツは、これらイギリスやアイルランドにあると言えます。(当時の)江戸切子の特徴としては、いずれも鉛分の多い鉛ガラスで、色被せガラスはほとんどなく、色は多少黄緑を帯びたスキガラスでありました。その模様は魚子模様の他に、籠目・麻の葉・菊・格子切子など、と呼ばれるものが単独に、また、組合わせた模様として用いられています。
ななこ4

「江戸切子」 天保5年(1834)江戸で始まります。素材は透明なガラスと色被硝子でも色を薄く被せたものとがあります。カットは深く鮮明で正確であり仕上がりがはっきりとして華やかです。

「薩摩切子」 色被硝子を用いたカットガラス。色を厚く被せた素材で切子が半透明な淡い感じの仕上がりとなる。幕末期薩摩藩で20年位の歴史の中でその後途絶え、現在あるものは復元的なものが中心です。


ななこ5