螺旋物語(12) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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さて日本に二重螺旋は存在するのだろうか?
《会津さざえ堂》会津若松市一箕町飯盛山
会津さざえ堂は1796年に建立された、高さ16.5m六角三層のお堂です。正式名称は「円通三匝堂」といいます。その昔、飯盛山には正宗寺というお寺があり、当時の住職であった僧郁堂の考案した建物です。その独特な二重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂にお参りするだけで三十三観音参りができるという大変合理的なお堂です。また、上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りができるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、その特異な存在が認められ、平成7年に国重要文化財に指定されました。1780年代より、当時の民衆の観音信仰を背景に、江戸の羅漢寺をはじめ、関東を中心として全国各地にさざえ堂と呼ばれる建物が建てられました。やはりどちらのさざえ堂も観音像を安置し、一度にお参りするためのお堂です。有名なところでは群馬県太田市や埼玉県児玉町に現存しますが、会津さざえ堂の構造とは異なり、平面は方形で中二階を用いた三階建てになっています。
《曹源寺さざえ堂》群馬県太田市東今泉町
祥寿山曹源寺は曹洞宗の寺院で、寺伝によると新田氏の祖義重が京都から迎えたという養姫である祥寿姫の菩提を弔うため、文治3年(1187)に開基したと伝えられています。また、境内には薗田氏一門により造立されたかと考えられる名号角塔婆や中興開基と伝えられる横瀬氏の五輪塔があります。江戸時代に本堂が火災に遭い、その後、観音堂が造られ、観音堂を本堂としてきています。観音堂はさざえ堂と呼ばれ、江戸時代中期に普及・発展した三十三観音・百観音信仰を背景に、関東・東北地方に限って建造された三匝堂のひとつです。寛政5年(1793)に創建された建物で、間口・奥行ともに9間(約16.3m)、高さ55.5尺(約16.8m)であり正面は東向きです。外観は重層の二階建に見えますが、内部は三層になっています。堂内には秩父、坂東、西国の観音札所計百ヵ寺の観音像を安置し、右回りに堂内を一方通行で巡拝できることから「さざえ堂」の名があります。現在、埼玉県児玉町の成身院と福島県会津若松市の旧正宗寺と合わせて、日本三さざえ堂と言われていますが、曹源寺のさざえ堂が最大です。
《百体観音堂と成身院》埼玉県児玉町
児玉町小平には新真言宗豊山派寺院成身院があります。成身院は周辺の99ヶ寺を末寺に持つ地方本寺で江戸時代には大きな偉容を誇っていました。天明3年に起きた信州の浅間山大噴火は周辺の村々を飲み込み大きな被害をもたらし、住職元映は亡くなった人々の冥福を祈るために百体観世音を建立を祈願しました。弟子の元照上人は師の意志を引継ぎ、江戸に托鉢を行い多くの人々よりの寄進を受けて寛政期に百体観音堂を建立しました。外観2層、内部3層構造で栄螺堂と呼ばれ、内部は梯子によって一層づつあがり周りながら百観音をたどれるようになっています。現在の建物は明治21年に火災で焼失し、同41年に再建されたものです。堂の入口には寛政11年に造られた大型の鰐口が下がっています。
日本の歴史的な建築は、階段が貧困である。2階以上を生活空間とすることが、きわめてまれだったからである。金閣あたりが、2階建て以上の最初だろうと言ったら驚かれるかもしれない。五重塔もあれば、法隆寺金堂だって2階建てではないか、と言われるかもしれない。でも、これらの建築の上階には内部空間は存在しない。外観だけの重層建築なのである。歴史的に見るとさざえ堂は江戸中期に忽然と出現する。最初のさざえ堂は江戸本所羅漢寺に建てられたものである。1716年頃羅漢寺の住職象先によって構想され1780年に完成する。さざえ堂は江戸市中に大変なブームを巻き起こし、名所図会、錦絵などでその様子を今に伝えている。以後、関東を中心にいくつかの類似するさざえ堂が建築された。残念ながら羅漢寺のさざえ堂は現存していない。