「杉原さん、トイレの水は流しましたか?」
まさか齢四十を過ぎて、こんなことを聞かれるとは思わなかった。
その日、ぼくはあるイベントに登壇することになり、早めに会場へ到着していた。知り合いが住職を務めるお寺である。
ことあるごとに公言していることだが、ぼくの座右の銘は「トイレは行けるときに行っておけ」。イベント前となればなおさらである。会がスタートする前に、小を済ませるべくトイレに入った。
立ちながら使う男性トイレ。目の前にあるボタンを押すと水が流れるタイプ。
手を洗ってトイレから出ると、齢八十に近い住職が待ち構えていた。
「杉原さん、トイレの水は流しましたか?」
なんだか小学生に戻ったような感覚に襲われ、急に気持ちが小さくなった。
「多分、流したと思いますけど……。ぼく、前に何かやらかしましたっけ?」
「いや、杉原さんだけに言ってるわけじゃないんですよ? ウチのトイレはボタンを押さないと流れないでしょう。今は自動で流れるトイレが多いから、みんな忘れるんですよ」
その言葉を聞いてちょっと安心したが、言われてみると、本当にちゃんと水を流したのか、自信がなくなってきた。
さて、ぼくの登壇は無事に終わり、休憩時間、ふたたびトイレへ行った。
「水を流す……水を流す……」
頭の中で繰り返し、最後にしっかりボタンを押し、水が流れるのを確認した。
「よし」
手を洗ってトイレから出ると、すでにイベントの続きが始まっていた。
急いで自分の椅子に座ったが、なんとなく違和感を感じ、ひざの上に置いていた資料をどけて、股間に目をやった。
……チャック全開である。
水を流すことばかりに意識が行って、チャックを閉めるのを完全に忘れていたようだ。
「おのれ住職……!」
と、すぐ他人のせいにするのは本当に悪いクセだ。
改めて、「人間は二つのことを同時に考えることができない」ということを思い知った。
集中力は大事だが、その間、他のことはお留守になりやすい。だから、さまざまなことに対応する必要のある日常生活では、むしろ集中しすぎず、意識を散漫にしておくことが大事なのだ。
いっぽうで、「人間は二つのことを同時に考えることができない」ということを活かす方法もある。たとえば、「うれしいことを考えている間は、悲しいことを考えることができない」。
これは、辛いことの多い人生を、少しでも楽しく生きていくための知恵である。ぼくはこのことを「金さん銀さん」から学んだ。そう、「うれしいような、悲しいような」で流行語大賞を取った、双子のおばあちゃんである。
流行語大賞を取ったときの会見で、記者は彼女らにこう質問した。
「うれしいですか?」
もちろん記者としては、「うれしいような、悲しいような」というコメントを期待したのだろう。しかし、彼女らはこう答えたのだ。
「うれしいです。うれしければ、悲しいこともありません」
テレビに映るその字幕を見て、ぼくははっとさせられた。そのとおりだと思った。
金さん銀さんは二人とも百歳を超えている。その間、悲しいことがないはずがない。けれども、うれしいことを考えている間は、悲しいことを考えずにすむ。彼女らの言葉は、まぎれもなく人生の金言だと思った。
それはさておき、チャック全開に気づいたぼくは、イベント終了後、住職にそのことを報告した。住職のせいで危うく大惨事になるところだった、と。住職は爆笑していた。
ただ開いているというだけで、人を愉快な気持ちにさせるズボンのチャック。場合によっては破滅的な事態を引き起こすこともあるが、そんなことで破滅するようなものはとっとと破滅したほうがよい。
「社会の窓」という別名は誰が付けたのか知らないが、ズボンのチャックから見える「社会」というものは確かにある。