悟りとは何か。
僕はいまだによくわからない。一生わからないままで終わるような気がするし、それでいいとも思っている。けれども、「悟りとは何か」について考えるのは面白いことである。答えはその時々で変わってくる。その変遷自体が面白いし、あらゆる経験に意味を見出すきっかけにもなる。
「悟り」というものが、汚れなき清浄な心の状態だとすれば、産まれたばかりの赤ん坊こそが、最も悟った状態だということもできるかもしれない。だがそうではなく、「苦を知ってこその悟りだ」という考え方もある。赤ん坊のように何も知らない状態で清浄なのではなく、人生の苦を知った上での清浄な心、そこにこそ真の悟りがあるのだ、と。
この構図を、次のようなイメージで考えてみた。
一本の管があって、その下に心がつながっている。
管の上から清浄な水が注がれれば、心には清浄な水が貯まる。これが、赤ん坊の状態と考えればよい。
もし管の上から汚水を注げば、心には汚水が広がる。要するにこの汚水が「苦」である。
人間、この社会で生きていると、さまざまな汚水を心の中に注ぎ込まれることになる。しかしその汚水も時間が経てば、清浄な水と汚れた部分とに分離していくだろう。そして心は、その汚れた部分を淀みとして底に貯めることもできるが、それを加工し、管のほうへ移して、フィルターにすることもできるのではないだろうか。そして次に汚水が注がれた時には、そのフィルターが汚れを回収して、心には清浄な水だけが届くようになる。
このフィルターのことを、価値観と呼んでいいのではないかと思う。
赤ん坊は価値観を持っていない。汚水を注がれればすぐに心が汚水に染まってしまう。しかし物心ついて、自分なりのよき価値観を形成することができれば、汚水を注がれた時にも、そのフィルターによって清浄な心を保つことができる。これを人間的な成長と捉えることもできるだろう。もちろん、その価値観が誤ったものであれば、清浄なものをせき止め、汚水だけを心に貯めるフィルターになってしまう可能性もある。
「よきフィルター=価値観」を形成できれば、どのような状態にあっても清浄な心を保つことができる。
しかしそれを「悟り」と呼べるのだろうか。僕はそれは何となく浅い考え方のような気がする。
もし本当に「悟り」というようなものがあるとすれば、それは「よきフィルターを備えること」ではなく、「もはやフィルターをも必要としない状態」のことであるように思われるのだ。
フィルターがない状態で汚水を注がれれば、汚水がそのまま心に広がる。にもかかわらず、そのままで清浄である。そう、これは矛盾である。けれども、ひとつ言えることは、汚水のない世界は存在しない、ということである。そのような世界の中で、自分の心の中だけを世界と分離し、清浄さを保つ。それは悟りへのプロセスとして必要であったとしても、悟りそのものとは言えないような気がする。
汚水をも引き受ける。それでいて清浄である。世界の悲しみの全てを背負いながら、それでいて安心している。そこには世界と自分との区別がない。本当に悟りというものがあるとすれば、きっとそのようなものなのではないか。汚水であれ、清浄な水であれ、それを形成している元のものは同じである。それがさまざまな現象として、世界として姿を現している。不思議なことである。
冒頭に述べたように、答えなど知る由もないが、わからないことこそが、ありがたいことなのだという気もする。それが僕にとっては、面白いということなのである。