いまではほとんど目にしなくなった旧暦(太陰太陽暦)を現在の暦(新暦)に活かし、相互の長所を活かした暦を作ろうという、意欲的な取り組みについて書かれた本である。
日本における暦の基礎知識がしっかり整理されていて、「暦の入門書」としても大変わかりやすい。
筆者自身の「太陽光発電の記録」から、その地方の「太陽の恵み」を可視化し、二十四節気との関わりを分析する手法は実に独創的。
ちなみに「ほんとうの暦」においては七十二候の記載が考えられているが、これを「地域ごとに異なるもの」として作成することが目指されている。その理由は次のように述べられている。
「七十二候の表現は地域による差が大きく、日本全体で共通化するのは困難である。同じ山口県内でも、花の開花が10日違うこともあり、5日毎に候が変化する七十二候を統一するのは無理がある」
「日本列島が南北にかなり長いので、季節感は地域によって大きく異なっており、「ほんとうの暦」とは、地域ごとの気候風土に合わせた暦であることが必要だと言える」
これは本当にその通りで、僕も以前、日本時間学会に掲載された論文「「ヴァナキュラーな暦」としての自然暦」の中で主張した内容である。ヴァナキュラーとは「風土的」「土着的」などと訳される概念である。そして地域ごとに異なる「自然暦」とは、本質的に土着の暦、すなわちヴァナキュラーな暦である。七十二候は自然の変化によって季節を表すが、それを日本全国で共通化した瞬間、それはヴァナキュラー(土着のもの)ではなくなり、自然暦の本質を失う。この「暦の均一化」は「人間の均一化」と結びついており、そのことが人間を交換可能な存在のように感じさせる一因になっていることを、この論文で指摘した。
暦とは本来、地域の生活と密接に結びついており、そうである以上、自然環境の異なる地域ごとに、それぞれの暦があってしかるべきなのである。それを「日本の暦」として一元化することは、近代国家を成立させるためのひとつの手段であったことを、私たちは知っておいてよい。
日本や世界という広範囲で共有される暦は便利だし、それを利用しない手はないが、それとは異なる「地域ごとの暦」があった方が、人々の生活は豊かなものになるのではないか。それはきっと、人間が人間らしく生きることを回復する重要な手掛かりになると思う。