星野道夫さんと「時間」について | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

このブログをきっかけに知り合った方が、とってもいい本を紹介してくれました。

 

星野道夫さんの『森へ』、そして『クマよ』。

 

星野道夫『森へ』福音館書店、1996年。

 

星野道夫『クマよ』福音館書店、1999年。

 

星野さんの文章と写真で構成されていて、どちらも40ページほどなので、すぐに読めてしまいます。

 

そう、「すぐに読めてしまう」はずなのです。なのに、なかなかページが次に進みません。

 

それは「進めない」のではなく、「もう少しそこで佇んでいたい」ような感じ。

 

ハッと息をのむ自然の美しさと、それを目の当たりにした星野さんの感動が、写真と文章を通して伝わってくるのです。

 

ちょっとおかしな表現かもしれませんが、この本は目だけでなく、五感をフルに使わなければ読めない本です。

 

星野さんがそこで感じたであろう、森の香り。鳥の鳴き声。鮭の感触。クマの気配。

 

それらを追体験するかのように、読者はゆっくり、ゆっくりと、ページをめくることになります。

 

人間の気配のない、澄んだ森の中にいると、自分の心も、次第に澄んでくるような気がします。そして星野さんの心の中には、いつもこの澄んだ自然があって、彼と出会った人は、彼を通して、その澄んだ自然に癒されたのかもしれません。

 

奥さんの直子さんは、星野道夫さんのことをこんな風に書いています。

 

いまも忘れられないのは、最初に出会ったときの彼の目です。 その目は少年のように澄んでいました。 

「はじめて会ったときから、長年付き合っていたかのような親近感をおぼえた」と、夫と出会ったたくさんの方がおっしゃいます。私もそう感じていた1人です。 

(星野直子「夫、星野道夫がくれた忘れられない言葉 『本当に好きなことだったら絶対に大丈夫だよ』」)

 

 

「ああ、僕も生きてる間にお会いしたかったなあ……」と思わずにはいられません。

 

ある日、星野さんは町の中で、「クマの存在を感じた」と言います。

 

電車にゆられているとき

横断歩道を わたろうとする しゅんかん

おまえは

見知らぬ 山の中で

ぐいぐいと 草をかきわけながら

大きな倒木を

のりこえているかもしれないことに

気がついたんだ

 

そしてこう続けます。

 

気がついたんだ

おれたちに 同じ時間が 流れていることに

 

彼は、町にいながら、クマと共に生きる時間を感じたのです。

 

しかし、日常生活に忙しく追われる私たちは、そのような動物や自然と共にある時間を、なかなか感じることができません。

 

都会で生活していると、むしろそんなことには思いを寄せず、目の前のことをテキパキとこなすことが求められます。何においてもためらうことなく、即断即決で選択し行動する。それこそが「優れた人間」であるかのように。

 

しかし哲学者のベルクソンの考え方から見れば、それは人間の「退化」なのかもしれません。

 

ベルクソンの時間論を研究する平井靖史氏によれば、ベルクソンはこう考えたと言います(ここからは僕なりの解釈ですので、詳しく知りたい方はぜひ平井氏の論考を読んでみてください)。

 

人間の進化は、ものごとに対して条件反射的に反応せず、「決定までの時間をできるだけ多くとること」、つまり「遅く」なることによってなされた。

 

それとは反対に、その反応の速さを突き詰めた方向に進化したのが「昆虫」である、と。

 

しかし人間は昆虫とは反対に、反応までの時間的猶予を持つこと(ためらうこと)によって、さまざまな経験や情報を参照し、「これまでと違う決定をすることができる」。そこに人間の特徴的な進化の方向性がある、というわけです。

 

そうして、決定(反応)までの「時間」をとることによって生まれてきたのが「心」なのだ、と。

 

<心が登場して、それが時間を認識するようになった>のではなく、<システムが時間幅を稼いだことによって、その効果として心というものが成立した>のである。

(平井靖史「時間の何が物語りえないのか」『時間学の構築Ⅱ 物語と時間』恒星社厚生閣、2017年)

 

その意味で、「ためらいを捨てさり、条件反射的にものごとをテキパキとこなす」ことは、人間が獲得してきた進化に逆行することなのかもしれないのです。

 

しかし、そもそも「進化」なんてものが本当にあるのでしょうか。

 

確かに人類は、脳の進化によって科学技術を発展させ、現代のような「優れた文明」を生み出したと言われます。

 

しかし現実を見据えれば、50万年とも言われる人類の歴史の中で、「科学的な思想」を社会の中心に据えたとたん、わずか数百年で「存亡の危機」を迎えているわけです。

 

それも人類だけが滅亡するのならまだしも、ほかの生物まで巻き込みながらですから実に厄介です。

 

自然農法の先駆者として知られる福岡正信さんは、そのような社会と人間の近代化を痛烈に批判し、「何もしない運動」を提唱しました。

 

人類の未来は今、
何かを為すことによって解決するのではない。
何もすることは、なかったのである。
否! してはならなかった。
強いて言えば〝何もしない運動〟を
する以外にすることはなかった。
今まで人類は多くのことを為してきたが、
何を為し得ていたのでもなかった。
一切は無用であった。

期待した巨大都市の発達や、
人間の文化的、経済的活動の急激な膨張が
人間にもたらしたものは、
人間疎外の空しい喜びであり、
自然の乱開発による
生活環境の破壊でしかなかった。

 

福岡さんによれば、自然界ではすべてはつながっていて、不要なものは何一つない。つまり人間もそのつながりの一部であり、特別に優れた存在ではないのです。

 

自然の生命は、動物(人や家畜)と植物と微生物(土)の間を次々と循環しているにすぎない。

(福岡正信『緑の哲学 農業革命論』春秋社、2013年)

 

にもかかわらず、なぜ僕たちは平然と「人間を進化の頂点に据える」ことができるのでしょうか。

 

実はそこにこそ、「科学的な考え方」の特徴があるのだと思います。

 

「科学」とは、「分けて考えましょう」ということです。

 

病院に行くと「外科」「内科」「小児科」「産婦人科」があり、学校には「文学科」「数学科」「社会学科」などのさまざまな「学科」があります。

 

つまり「科」とは、全体を分けたものであり、「科学」の本質は、全体を「分けて考える」ことにあります。

 

逆に言えば、「他のことは考えない」ということです。

 

「便利さ」「快適さ」を追求することのマイナス面が、世界中の自然や生命を脅かすことになるとしても、「そのことについては考えない」。それを可能にしたのが「科学的思想」だったのではないでしょうか。

 

とはいえ、ここにきていよいよ、人間自身がそのマイナス面に脅かされるようになり、問題を無視できなくなってきたのですが。

 

たとえば経済学においても、資本主義のメカニズムは「無限の経済発展」を前提に考えられています。その前提がなければ、必ずどこかで破綻することが分かっているからです。

 

しかし普通に考えればわかるように、地球の自然が有限である以上、「無限の経済発展」などはあり得ません。そんなことは経済学者たちも当然知っています。そこで彼らはこう考えました。

 

「自然は無限に存在すると仮定する」

 

要するに、「それについては考えない」ことにしたわけです。あるいは、「未来の科学の進歩」に丸投げした。その意味で、近代経済学とは科学的思想のもとに作られたものだと言えます。

 

アダム・スミスからマルクスに至る経済学は、自然を、あたかも無尽蔵に存在し、無限に利用できるかのごとく描いた。すなわち自然は抽象的無限性の彼方にあったのである。

(内山節「具体的自然・具体的労働に踏み込む『未来の経済学』」ハンス・イムラー著、栗山純訳『経済学は自然をどうとらえてきたか』農山漁村文化協会、1994年)

 

しかし福岡さんが言ったように、世界はあらゆるものが結び合いながら存在しています。そのような全体性の観点から言えば、科学的な答えとは絶対的なものではなく、科学的な答え「でしかない」のです。その答えを採用するときには、必ず何かしらの「ためらい」がなければならないのではないでしょうか。

 

とはいえ、科学に有効性があることは確かだし、僕もいわゆる「最新の科学」のようなトピックが大好きです。しかしそれは「世界の一面」を切り取ったものにすぎません。そのような「一面的な視点」を「正しさ」と勘違いした結果、人間は人類を「進化の頂点」に置くことができるようになったのかもしれません。

 

そんなことを考えながら星野さんの写真を見ていると、クマは賢者の顔をしているような気がしてきます。あの目に見つめられると、自分のよこしまな心が見透かされてしまうような。

 

星野さんもまた、人間とその他の動物との間に、一切のヒエラルキーを認めなかった人だと僕は思います。

 

だからこそ、星野さんはクマとの間に「同じ時間」を感じることができたのだ、と。