このブログをきっかけに知り合った方が、とってもいい本を紹介してくれました。
星野道夫さんの『森へ』、そして『クマよ』。
星野さんの文章と写真で構成されていて、どちらも40ページほどなので、すぐに読めてしまいます。
そう、「すぐに読めてしまう」はずなのです。なのに、なかなかページが次に進みません。
それは「進めない」のではなく、「もう少しそこで佇んでいたい」ような感じ。
ハッと息をのむ自然の美しさと、それを目の当たりにした星野さんの感動が、写真と文章を通して伝わってくるのです。
ちょっとおかしな表現かもしれませんが、この本は目だけでなく、五感をフルに使わなければ読めない本です。
星野さんがそこで感じたであろう、森の香り。鳥の鳴き声。鮭の感触。クマの気配。
それらを追体験するかのように、読者はゆっくり、ゆっくりと、ページをめくることになります。
人間の気配のない、澄んだ森の中にいると、自分の心も、次第に澄んでくるような気がします。そして星野さんの心の中には、いつもこの澄んだ自然があって、彼と出会った人は、彼を通して、その澄んだ自然に癒されたのかもしれません。
奥さんの直子さんは、星野道夫さんのことをこんな風に書いています。
いまも忘れられないのは、最初に出会ったときの彼の目です。 その目は少年のように澄んでいました。
「はじめて会ったときから、長年付き合っていたかのような親近感をおぼえた」と、夫と出会ったたくさんの方がおっしゃいます。私もそう感じていた1人です。
(星野直子「夫、星野道夫がくれた忘れられない言葉 『本当に好きなことだったら絶対に大丈夫だよ』」)
「ああ、僕も生きてる間にお会いしたかったなあ……」と思わずにはいられません。
ある日、星野さんは町の中で、「クマの存在を感じた」と言います。
電車にゆられているとき
横断歩道を わたろうとする しゅんかん
おまえは
見知らぬ 山の中で
ぐいぐいと 草をかきわけながら
大きな倒木を
のりこえているかもしれないことに
気がついたんだ
そしてこう続けます。
気がついたんだ
おれたちに 同じ時間が 流れていることに
彼は、町にいながら、クマと共に生きる時間を感じたのです。
しかし、日常生活に忙しく追われる私たちは、そのような動物や自然と共にある時間を、なかなか感じることができません。
都会で生活していると、むしろそんなことには思いを寄せず、目の前のことをテキパキとこなすことが求められます。何においてもためらうことなく、即断即決で選択し行動する。それこそが「優れた人間」であるかのように。
しかし哲学者のベルクソンの考え方から見れば、それは人間の「退化」なのかもしれません。
ベルクソンの時間論を研究する平井靖史氏によれば、ベルクソンはこう考えたと言います(ここからは僕なりの解釈ですので、詳しく知りたい方はぜひ平井氏の論考を読んでみてください)。
人間の進化は、ものごとに対して条件反射的に反応せず、「決定までの時間をできるだけ多くとること」、つまり「遅く」なることによってなされた。
それとは反対に、その反応の速さを突き詰めた方向に進化したのが「昆虫」である、と。
しかし人間は昆虫とは反対に、反応までの時間的猶予を持つこと(ためらうこと)によって、さまざまな経験や情報を参照し、「これまでと違う決定をすることができる」。そこに人間の特徴的な進化の方向性がある、というわけです。
そうして、決定(反応)までの「時間」をとることによって生まれてきたのが「心」なのだ、と。
<心が登場して、それが時間を認識するようになった>のではなく、<システムが時間幅を稼いだことによって、その効果として心というものが成立した>のである。
(平井靖史「時間の何が物語りえないのか」『時間学の構築Ⅱ 物語と時間』恒星社厚生閣、2017年)
その意味で、「ためらいを捨てさり、条件反射的にものごとをテキパキとこなす」ことは、人間が獲得してきた進化に逆行することなのかもしれないのです。
しかし、そもそも「進化」なんてものが本当にあるのでしょうか。
確かに人類は、脳の進化によって科学技術を発展させ、現代のような「優れた文明」を生み出したと言われます。
しかし現実を見据えれば、50万年とも言われる人類の歴史の中で、「科学的な思想」を社会の中心に据えたとたん、わずか数百年で「存亡の危機」を迎えているわけです。
それも人類だけが滅亡するのならまだしも、ほかの生物まで巻き込みながらですから実に厄介です。
自然農法の先駆者として知られる福岡正信さんは、そのような社会と人間の近代化を痛烈に批判し、「何もしない運動」を提唱しました。
人類の未来は今、
何かを為すことによって解決するのではない。
何もすることは、なかったのである。
否! してはならなかった。
強いて言えば〝何もしない運動〟を
する以外にすることはなかった。
今まで人類は多くのことを為してきたが、
何を為し得ていたのでもなかった。
一切は無用であった。
期待した巨大都市の発達や、
人間の文化的、経済的活動の急激な膨張が
人間にもたらしたものは、
人間疎外の空しい喜びであり、
自然の乱開発による
生活環境の破壊でしかなかった。
福岡さんによれば、自然界ではすべてはつながっていて、不要なものは何一つない。つまり人間もそのつながりの一部であり、特別に優れた存在ではないのです。
自然の生命は、動物(人や家畜)と植物と微生物(土)の間を次々と循環しているにすぎない。
にもかかわらず、なぜ僕たちは平然と「人間を進化の頂点に据える」ことができるのでしょうか。
実はそこにこそ、「科学的な考え方」の特徴があるのだと思います。
「科学」とは、「分けて考えましょう」ということです。
病院に行くと「外科」「内科」「小児科」「産婦人科」があり、学校には「文学科」「数学科」「社会学科」などのさまざまな「学科」があります。
つまり「科」とは、全体を分けたものであり、「科学」の本質は、全体を「分けて考える」ことにあります。
逆に言えば、「他のことは考えない」ということです。
「便利さ」「快適さ」を追求することのマイナス面が、世界中の自然や生命を脅かすことになるとしても、「そのことについては考えない」。それを可能にしたのが「科学的思想」だったのではないでしょうか。
とはいえ、ここにきていよいよ、人間自身がそのマイナス面に脅かされるようになり、問題を無視できなくなってきたのですが。
たとえば経済学においても、資本主義のメカニズムは「無限の経済発展」を前提に考えられています。その前提がなければ、必ずどこかで破綻することが分かっているからです。
しかし普通に考えればわかるように、地球の自然が有限である以上、「無限の経済発展」などはあり得ません。そんなことは経済学者たちも当然知っています。そこで彼らはこう考えました。
「自然は無限に存在すると仮定する」
要するに、「それについては考えない」ことにしたわけです。あるいは、「未来の科学の進歩」に丸投げした。その意味で、近代経済学とは科学的思想のもとに作られたものだと言えます。
アダム・スミスからマルクスに至る経済学は、自然を、あたかも無尽蔵に存在し、無限に利用できるかのごとく描いた。すなわち自然は抽象的無限性の彼方にあったのである。
(内山節「具体的自然・具体的労働に踏み込む『未来の経済学』」ハンス・イムラー著、栗山純訳『経済学は自然をどうとらえてきたか』農山漁村文化協会、1994年)
しかし福岡さんが言ったように、世界はあらゆるものが結び合いながら存在しています。そのような全体性の観点から言えば、科学的な答えとは絶対的なものではなく、科学的な答え「でしかない」のです。その答えを採用するときには、必ず何かしらの「ためらい」がなければならないのではないでしょうか。
とはいえ、科学に有効性があることは確かだし、僕もいわゆる「最新の科学」のようなトピックが大好きです。しかしそれは「世界の一面」を切り取ったものにすぎません。そのような「一面的な視点」を「正しさ」と勘違いした結果、人間は人類を「進化の頂点」に置くことができるようになったのかもしれません。
そんなことを考えながら星野さんの写真を見ていると、クマは賢者の顔をしているような気がしてきます。あの目に見つめられると、自分のよこしまな心が見透かされてしまうような。
星野さんもまた、人間とその他の動物との間に、一切のヒエラルキーを認めなかった人だと僕は思います。
だからこそ、星野さんはクマとの間に「同じ時間」を感じることができたのだ、と。