「名前負け」という言葉があります。
子どもにあんまり立派な名前をつけると、その名前の立派さに負けて、本人が見劣りしてしまう、というような意味です。
たとえば、あなたが偶然知り合った人の名前が「漱石」だったとしましょう。きっとそれだけで「この人はきっと文才があるに違いない」と思ってしまうのではないでしょうか。
それで実際に文才があればいいですが、もしなかったら、「なんだよ……」と勝手に裏切られた気分になるかもしれません。「漱石さん」は何も悪くないのに(笑)。
もちろん、子どもに「漱石」という名前をつける親は、きっと文学好きでしょうから、その子どもも文学好きに育つ可能性は高いかもしれません。しかし子どもは、親の思い通りに育たないのが世の常なのでございます(笑)。
そういう「名前負け」に対して、「名前勝ち」ということもあります。
たとえば「フィヨルド」。
ウィキペディアによれば、「氷河による浸食作用によって形成された複雑な地形の湾・入り江のこと」であり、「ノルウェー語による通俗語を元とした地理学用語である」とのこと。
みなさんも学校の教科書で習った覚えがあるのではないでしょうか。
はっきり言って、僕らの日常生活には全く関係のない言葉です。それでも、なんとなく覚えてしまっている「フィヨルド」。
授業で「フィヨルド」という言葉を習って間もない頃、友達とことあるごとに「フィヨルド!」「ハァ〜、フィヨルド!」などと連呼していたのを覚えています。
それはなぜか?
そう、単に「言いたいだけ」なのです。
これがもし「フィヨルド」ではなく、「氷河侵食湾」とかだったらどうでしょう。
きっと見向きもされないに違いありませんし、絶対に覚えないでしょう。
「フィヨルド」は完全な名前勝ちです。
芸能人の名前で、このような「名前勝ち」を実感した例をひとつあげるならば、やはり彼でしょう。
「ナオト・インティライミ」。
正直なところ、僕は彼に全く関心がないのですが、不思議と口にすることは多いのです。
サッカー関連の番組などに彼が出ているのを見ると、その翌日、「きのうナオト・インティライミがテレビに出てたけどさ……」などと友人に話していたりします。
そこには特に伝えたいことなどないのです。ただ単に、「ナオト・インティライミ」が言いたいだけなのです。
これは完全に「名前勝ち」です。
これにならって、僕も「白秋・インティライミ」という名前にしようかな、と思ったこともあります。そうすれば、みんななんとなく、名前を口にしてくれるのではないか……と。すぐ正気に戻ってやめましたが。
「フィヨルド」と「インティライミ」。
共通するのはその「語感の良さ」と、ある種の「意味のわからなさ」でしょうか。
「フィヨルド」は写真などで見たり、説明を聞いたりすることはありますが、実際に目にすることはまずありません。だから僕らにとっては常に「よくわからないもの」として存在しています。
ノルウェー旅行の目玉として、「雄大なフィヨルドをその目で確かめましょう!」などの煽り文句があったりしますが、そもそもなぜ確かめなければならないのでしょうか?みんな本当に「フィヨルド」に興味があるのでしょうか?
ただ単に、「フィヨルド!」と何度も口に出しているうちに、なんとなく「一度は見ておかなければならない」ような気になっているだけなのではないでしょうか。
おそるべし名前の魔力です。
「インティライミ」にいたっては、「フィヨルド」以上に意味がわかりません。
でも、「わからないから言いたい」のです。たぶん。
もしあなたの友人が「ひろし・インティライミ」に改名したとしましょう。
あなたが彼にそれほど関心がなかったとしても、ことあるごとに「ひろし・インティライミ、どうしてるかな」などと話題に出したくなるのではないでしょうか。
ところで、世界遺産に登録して欲しいけど、なかなか登録してもらえない遺産というのがあります。それなどは、名前の後ろに「インティライミ」をつければよいのではないでしょうか。
そうすれば選考委員も、ただその名前を言いたいがために、思わずその遺産を推薦してしまうに違いありません。
世界遺産への登録に大変苦労したと言われる富士山も、「富士山・インティライミ」という名前に改名しておけば、10年は早く世界遺産に登録されていたはずです。
このブログも、単に「フィヨルド」と「インティライミ」を言いたいがために、2000字近くの文章を、それなりの時間をかけて書くことになってしまいました。
恐るべし、名前の魔力。