すだれの季節 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

ウチもついにおとといから、

ベランダにすだれを掛け始めた。

 

 

 

 

「日本文化いろは事典」によれば、

簾(すだれ)という言葉は

万葉集にも登場するという。

 

日光をいい具合に防ぎながら、

風はちゃんと通す。

 

それらを完全に遮断してしまうのではなく、

外とのつながりを保ちながら

快適な空間を作り出すところに、

日本の伝統的な知恵があるのだろう。

 

これは「自然保護」の考え方にも

通じるところがある。

 

たとえば哲学者の内山節氏は次のように述べている。

 

自然保護は世界中で議論されている課題なのに、このテーマの受け止め方はさまざまである。北米では原生的自然の保全がその中心になり、大陸ヨーロッパでは、人間の暮らす村々で野生生物が生存できるようにすることが、中心的な課題になっている。そして日本では、自然とともに暮らせる人間のあり方が議論の中心である。(内山節『「里」という思想』新潮選書、2005年、153頁)

 

だからアメリカなどで「自然保護」というと、

その場所を「立入禁止」にするなどして、

完全にその空間を囲い込み「保全する」。

 

つまり他の空間とのつながりを

「遮断する」というアプローチがとられる。

 

しかし日本の場合、

あくまで自然との関わりを保ちながら、

自然と人間が共存していく関係が模索される。

 

家の構造も同様で、

日本の伝統的な民家などは、

他人が自由に使ってよいスペースとしての

「縁側」に象徴されるように、

内と外の境界線が極めてあいまいである。

 

人間観にしても、

欧米では伝統的に「自分」と「他人」を

明確に分けてものごとを考えるが、

日本の伝統的な考え方では、

「自分」と「他人」の境界はあいまいである。

 

そして近年の科学的な見解は、

意外に日本の伝統的な考え方に近づいている。

 

生物学者の福岡伸一さんなどは、

 

「私が私であるということを担保している

 物質的な基盤は何もない」

 

とさえ言っている。

 

僕も、本質的にはおそらく万事

そういうものなのだろうという気がしている。

 

部屋を閉め切ってエアコンをつけるより、

すだれをかけて外とのつながりを感じるほうが

なんとなく気分がいいのは、

きっとそこに人間の生き方の本質が

あるからなのかもしれない。

 

 

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