【映画】「この世界の片隅に」〜あたたかい時間を生きる〜(ネタバレあり) | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

「すごくいい」

という評判だけは各方面から聞いていて、

観よう観ようと思っていた映画、

「この世界の片隅に」。

 

女優ののんちゃんが

主役の声優をやっていることもあり、

その意味でも興味があった。

 

全国公開されたのは

ずいぶん前だったので

(2016年11月12日)、

さすがにもうやってないかなーと

あきらめかけていたのだが、

なんとまだ複数の劇場でやっていた。

 

これほどのロングラン上映は

なかなかないのではないか。

 

しかし映画を観てみて、

その理由がわかった気がする。

 

悲しい出来事が起きても、

不思議とあたたかい余韻に包まれるのは、

彼らがあたたかいつながりの中で、

あたたかい時間を生きたからだろう。

 

レヴィナスや内山節が言うように、

「時間とは関係である」。

 

その人を取り巻く「関係」こそが、

その人の生きる「時間」である。

 

主人公のすずが嫁いですぐの頃、

きっとすずの時間は

一時的に停止しただろう。

 

けれども、あたらしい家族との、

あたらしい関係が紡がれていく中で、

すずの時間はまた動きはじめる。

 

その関係があたたかければ、

そこにはあたたかい時間がある。

 

しかしこの映画では、

そのようなあたたかい時間を切り裂くように、

空襲警報が鳴り響く。

 

これは日常を生きるすずやその家族とは、

直接的な関係を持たない。

 

だからこの空襲警報が鳴り響くたびに、

すずたちの時間は切り裂かれ、停止する。

 

だがそれが終われば、

彼らはふたたび

日常のつながりの中へと帰っていき、

時間はふたたび動き出す。

 

そしてすずのお姉さんの子、

はるみが亡くなったときもまた、

すず、お姉さん、その家族の時間は、

やはり停止しただろう。

 

空襲警報はいずれ終わるけれども、

亡くなった人が生き返ることはない。

 

しかしそれでも、

すずやその家族は、

亡くなったはるみとの、

あたたかい関係を紡ぎ直す。

 

たとえこの世にはいなくても、

彼女との関係が紡がれていたならば、

彼女は確かに「存在する」のだ。

 

そうして、

ふたたび時間は動き始める。

 

この映画のすばらしいのは、

こうした時間の「死と再生」をとおして、

僕たちがどのような関係の中で

生きているのかを

確かめさせてくれるからだ。

 

映画を観終わったあと、

大切な人の顔が思い浮かぶのは、

きっとそのせいだろう。

 

そうして僕たちは

あたたかい気持ちになって、

あたたかい時間の中へ帰りたくなる。

 

 

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