私たちは自由になったのではなく、大切なものを失ってきたのだ | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

「疎外」という概念がある。

 

この言葉は実にさまざまな意味で

使われるけれども、そのうちのひとつに、

 

「自分がつくりだしたものによって、

 自分自身が支配される」

 

というものがある。

 

だから「人間疎外」といえば、

 

「人間がつくりだしたものによって、

 人間自身が支配される」

 

ということになる。

 

この「人間疎外」は近代の問題として

ずっと議論されてきているけれども、

確かに現代社会はそのような

「人間疎外」の構造にあふれている。

 

僕たちが生きている「時間」もそうだ。

 

もちろん「時間」は

人類が誕生する前から

ずっとあっただろうけれども、

「もう2時か……」とか、

「15時集合!」というように、

数字で表される時計の時間は、

人間が生み出したものだ。

 

そしていまや人間自身が、

その時計の時間に支配されている。

 

機械時計が普及する近代以前の社会では、

基本的に自然の変化を基準にして

人々は時間を知った。

 

その意味では、

人間が「時計の時間」に

支配されることはなかったわけだ。

 

しかしこう言うと、

 

「じゃあ昔は自然に

 支配されていたんじゃないか」

 

と考える人もいるだろう。

 

だが本当にそうだろうか。

 

昔は(本当は今もそうだが)、

農業や漁業が生活の中心であったように、

自然とは生きる糧そのものであった。

 

だから自然は今よりはるかに

人間にとって身近なものであり、

単に生きるための手段というより、

「共に生きる」関係だったのではないか。

 

自然が単に

「人間が生きるための手段」

以上のものであったことは、

各地に残る祭りを見れば明らかだろう。

 

人間にとって自然とは、

手段以上の意味で「大切な」

存在だったに違いない。

 

その自然の変化を

「時間」として捉えることは、

「自然に支配される」というよりも、

「自然と共に生きる」といった方が

僕は合っているように思う。

 

現に僕らだって、

大切な人やものごとのための時間は、

決して無駄な時間だとは思わない。

 

好きな人にあげるプレゼントを選ぶ時間は、

たとえどれだけかかったとしても、

苦痛ではなく喜びである。

 

自分が好きな弾き語りをする時間は、

何時間ぶっ続けでやったとしても、

苦役ではなく楽しみである。

 

僕らはそのような時間を

「支配されている」とはいわないだろう。

 

大切なものと共に生きるとき、

私たちはそういう「支配」とは

無縁な時間に生きている。

 

そのような時間を時給換算して、

お金に置き替えることなどできないのだ。

 

だが常にそれをやろうとするのが、

現代の資本主義社会である。

 

「時計の時間」に支配されている現代社会は、

同時に「大切なもの」と共にある時間を

失った社会でもあるのではないだろうか。

 

近代社会は、人間の「自由」を

実現していく社会だとされてきた。

 

だがその「自由」は、

何のためにあるのだろうか。

 

結局現代の私たちは、

自分が本当に大切なものと共にある時間を、

何か別のことに使いながら

生きているのではないか。

 

そこにある「自由な時間」とは、

本当のところ「空虚な時間」でしかない。

 

そのような「空虚な時間」を

「自由な時間の所有」と考え獲得していくことで、

「人間疎外」はより深まっていく。

 

そんな「自由」に

依存しなければならなくなったのは、

僕たちが自分たちにとって

「大切なもの」が見えなくなったからだろう。

 

「大切なもの」を見失い、

それと共にある時間を失ったから、

空虚な「自由」にすがるしかない。

 

絶対的な「自由」など存在しない。

 

「自由」とは関係であり、

そのような関係を生きる時に、

私たちは本当に自由な時間を生きている。

 

 

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