科学は「ワケガク」 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

「科学的な議論」とか

「科学的な検証」とか言うと、

さもそれが「正しいこと」のように

聞こえてしまうことがある。

 

しかし僕らはどうも、

この「科学」というものを

間違って捉えてきたような気がする。

 

「科学的」と言うと、

「理論的」とか「知性的」とかいう

イメージがあるけれども、

本質はそういうことではない。

 

そもそも科学の「科」というのは、

「分ける」とか「区分する」とかいう意味だ。

 

だから「科学」というのは、

「分けて考える」ことにその本質がある。

 

ではなぜ「分けて考える」

ことが必要とされてきたのか。

 

それは、

世界の現象はあまりにも複雑なので、

人間の能力では全体をそのまま

捉えることができないからだろう。

 

だからそれらを部分に分け、

ある「限定された状況」をつくって、

その中で「のみ」考えましょう、

ということだ。

 

世界をそのまま捉えようとすると、

それこそ森羅万象の全てを

要素に組み込まなければならない。

 

そんなことは無理なので、

ある限定された状況という

「フィクション」を形成し、

その中で「だけ」の結論を出しましょう、

ということにほかならない。

 

だからものごとを主張するときに、

「これは科学的な結論である!」

とドヤ顔をするのは間違いで、

「これは科学的な結論でしかないけれど……」

と控え目に言うのが正解である。

 

だから僕は、

「化学」が「バケガク」と呼ばれることから、

「科学」を「ワケガク」と呼んでいる。

 

わかりやすく言えば、科学とは、

「まあいろいろあるけど、それは置いといて学」

なのである。

 

科学が一面において

なんとなく冷たいイメージがあるのは、

人間の感情みたいに複雑なものは

「まあそれは置いといて……」

という形で「分けられ」て、

結局無視されるからだろう。

 

科学とは一面において知性的だが、

それは「その部分以外は基本的に考えない」

という「知性の限界」を前提にしている。

 

にもかかわらず、

そんな「部分的な結果」がいかにも

真理であるかのように思われてきたのは、

やはりデカルト思想の影響だろう。

 

デカルトが言ったのは、

「困難は解決できる大きさに分けて考えよ」

「部分の総和は全体に等しい」

ということだ。

 

どんなに大きな問題に見えても、

それを部分に分けてそれぞれ解決して、

後で全部をくっつければ、

問題全体が解決したのと同じですよ、

というわけだ。

 

デカルトが「近代科学の父」

と言われるゆえんである。

 

ところが、

バラバラにした人間の体を

もう一回くっつけても

人間ができあがるわけではない。

 

それを空想の中でやったのが

フランケンシュタインの物語だが、

それがフィクションであることは

誰でも知っている。

 

とはいえ、

このデカルト的=科学的発想が

部分的に有効であることは確かで、

それゆえに科学はここまで発展した。

 

しかし僕が考える科学の最大の問題は、

問題を「空間的」に分けるだけでなく、

「時間的」にも分けてしまう所だ。

 

要するに、

「これ、100年後には大変なことになるよ…」

というような問題を、

「10年では何も起こりませんよ」と言って、

その何も起こらない「10年」を10個つなげて、

「100年後も安全」と言ってしまう所だ。

 

普通に考えれば無茶な理屈だが、

それが「科学的」な考え方である。

 

そうでなければ、

「放射性廃棄物を10万年管理しよう」

なんて発想は出てこないだろう。

 

数万年単位で続いてきた人類の歴史だが、

「科学的な思想」を社会の中心に据えたとたん、

数百年後には「存亡の危機」を迎えている。

 

科学は「ワケガク」である。

 

「専門家」の「科学的な議論」は、

専門家の科学的な議論「でしかない」。

 

そういうものに

自分たちの生活を委ねてきた、

その結果を見せつけられているのが、

いまの日本の現状なのだろう。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村