長寿番組と「1/fゆらぎ」 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
ロングヒットを続けている
テレビドラマ「相棒」。

最近視聴率の低下がささやかれているが、
確かに僕の身近にいる「相棒」ファンも、
最近の内容には不満をもらしていた。

その人に言わせると、
「ドラマの基本パターンが崩れてきている」
ということらしい。

誰にでもわかるように
たとえば「水戸黄門」に例えると、

「黄門様が印籠を出さない」とか、
「助さん格さんが悪の道に走る」とか、
「黄門様がこてんぱんにやられる」とか。

こういう展開になると、
なんだかげんなりするらしい。

確かに作り手側の立場になってみれば、
「飽きられてしまうんじゃないか」
という危機感が常につきまとうのはわかる。

そこで「マンネリを打破しなければ」
という意識が働くのだろう。

ところが見る側はたいてい
「そんなものは求めてない」のだ。

実際ロングセラーに
なっているものを見てみると、
ちょっとした展開の変化はあっても、
その設定や枠組みが
大幅に変わるものは少ない。

単発の映画ならともかく、
何度も見るものであればあるほど、
人はそこに「安心感」のようなものを
求めるのではないだろうか。

「安心感」と言えば、
「1/fゆらぎ」という言葉がある。

あるパターンを繰り返しているのだけれど、
若干の不規則性を持つ「ゆらぎ」。

それはたとえば「川のせせらぎ」や
「さざ波」「そよ風」など、
自然界に多く見られるという。

そういうリズムに包まれるとき、
僕らは不思議と心地よい気分になり、
「いつまでもこうしていたい」
とさえ感じる。

おそらく長寿番組というものも、
何らかの形でこの「1/fゆらぎ」を
生み出しているのではないか。

短期的な視聴率を求めて
枠組み自体を壊すような変化をすれば、
「1/fゆらぎ」はすぐに消えてしまうだろう。

だが一方で、
「伝統はイノベーションの連続だ」
という考え方もあるだろうし、
どっちが正しいかはよくわからない。

話を「相棒」に戻そう。

実は僕もきのうの
最終回を見たのだが(笑)、
ひとつ感想を述べるとすれば、
そこに「片山杉下右京はいなかった」
ということだろうか。

片山杉下右京は架空の人物に違いないのだが、
それを生み出す「片山杉下右京」は
実在しなければならないのだ。

別にそれは個人でなくてもかまわなくて、
チームとして「片山杉下右京」であってもいい。

しかしどうもいま現在、
片山杉下右京」は不在であるらしい。

そんな気がしたけれど、
僕は単なる「にわか視聴者」なので、
ほぼ確実に的外れであると思われる。

ちなみに僕のところにはまだ
次期「相棒」のオファーは来ていない。


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