中年の特権 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
我が家のトイレに飾ってある植物。

たぶん無印良品で買ったものだと思うが、
それからもう1年半くらいになるだろうか。

小さかった時には、
ちょっと水やりを忘れると
すぐに葉が枯れてきたりして、
「こいつはあんまり長生きせえへんのかなあ」
と思っていた。

ところがある時期にぐんぐん背が高くなると、
今度は幹がどんどん太くなってきて、
「芽」から「木」へとその雰囲気を変えていった。

それからは、ちょっと水をやらなくても
枯れたりすることはすっかりなくなった。

ちゃんと観察しているわけではないので
たぶん間違っていると思うけど(笑)、
背の高さはある程度で止まり、
それから幹がどんどん
太くなってきている気がする。

たぶん幹が太くなる前に
そのままどんどん背だけが高くなると、
貧弱な折れやすいヤツに
なってしまっていただろう。

ずいぶんうまくできてるもんやなあと、
用を足しながらいつも感心している次第だ。

だがよくよく考えてみると、
人間の心の成長にも
同じようなところがあるのかもしれない。

子どものころは好奇心のおもむくままに
ひたすら周りの人やモノと関わろうとする。

そのうちに大人になってくると、
仲間や社会との関係の中で、
いろんな役割を担うようになったりする。

そうした中で
「若さゆえの全能感」みたいなのを
感じたりすることもあるだろう。

これがさっきの植物で言えば
「背が高くなる」ようなタテの成長である。

ところがそのまま背だけが高くなると、
「折れやすい」存在になってしまう。

背の高さに見合った「幹」や「根」を
いまのうちに育てておかなければ、
いきなり大きな問題にぶち当たった時に
なすすべもなくポッキリいっちゃって、
さっそく致命傷になりかねない。

そこで出番となるのが、
いわゆる「苦労」や「挫折」を
ともなうような「つらい」出来事である。

その最中にいるときには、
「タテの成長が止まってしまった」
という負の側面しか見えない。

だがその間に、
幹や根が太くなっていくという
「ヨコの成長」や「シタの成長」が
どんどん進んでいくのである。

もしそういうことが
必要に応じて起こるのだとすれば、
何か大変な出来事が起こるのは、

「いまの幹や根っこのサイズにしては
 じゅうぶんすぎるくらい背が高くなった」

ということの証だと考えることもできる。

「これ以上伸びたら折れやすくなる」
というタイミングで、
「ぼちぼち幹や根を太くしとこか」
というわけだ。

そう考えると、
ふいにやってきた「つらい」出来事も、
ちょっと前向きにとらえられるかもしれない。

しかし普段はそう思えないのは、
タテの成長が見えやすいのに対して、
ヨコやシタへの成長は見えにくいからだろう。

にもかかわらず、
ぼくのおなかまわりの成長は
目に見えて著しいものがある。

もしかするとこのおなかは、
そうした可視化されにくい「真理」を
ぼくに教えようとして
くれているのかもしれない。

確かにこのおなかのおかげで、
自分自身を含めたいろんなものに対する
「寛容さ」が増したような気がする。

見た目が「ゆるキャラ化」することで、
考え方も「ゆるキャラ化」しているのだろうか。

おなかまわりの成長については
「負の側面」が語られることの方が多いが、
それは一面においては
「柔軟性の獲得」でもある。

さして努力することもなく、
このようなヨコの成長を
自然に達成することができるとは……。

中年の特権である。


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