僧侶の藤原東演さんのお話を
伺う機会に恵まれた。
藤原さんはかつて、
まだ8ヶ月の息子さんを亡くし、
それから毎日息子さんに
お経を読まれているそうだ。
東演さんが悲しみに
打ちひしがれているとき、
ある親しい僧侶の方から
次のような手紙をもらったという。
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一人を育て生かしめるために
如何に見えざる底辺のあることか。
愛は、愚になることができるというが、
息子さんは仏となって東演さんを、
いや父を父たらしめる
生命だったのではないだろうか。
愛し子の供養するぞと思うなよ
我れが子どもか 子どもが我れか
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その手紙を読み、
東演さんは次のように
考えるようになったという。
私が息子を供養しているのではない。
息子が私を供養してくれているのだ。
東演さんは、
「供養」とはすなわち
「プレゼント」だと言う。
「子どものおかげで、
お経を毎日読まさせてもらっている」
そのようにして、8ヶ月の息子に
ずっと供養してもらっているのだ、
と東演さんは言うのである。
僕はここに人間関係の
基本的な姿があるように感じる。
人間は人に何かを与えようとするとき、
必ず何かを受け取っている。
そして何かを受け取っているとき、
必ず何かを与えているのである。
それは、生者と死者との
関係においても変わらない。
そしてそのとき、
死者は確かに「生きている」のである。
藤原さんは本をたくさん
出版されているので、
関心のある方はぜひ
一読されてみてはいかがでしょうか。
ここでは拙著『考えない論』
いちばん近そうなものをご紹介しておきます。
人生、考えすぎないほうがいい―頭で動くなからだでつかめ