至れり派か、尽くせり派か | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
「至れり尽くせり」という言葉がある。

「配慮が行き届いて、申し分がない」
(デジタル大辞泉より)
といった意味らしい。

至れり尽くせりと言うぐらいだから、
「至っている」うえに、
しかも「尽くされている」わけである。
こんなサービスはまさに理想的だ。

しかし「二兎を追う者は一兎をも得ず」
という言葉もあるように、二つのことが
同時に手に入ることはまれである。

そこでもし、あなたが
何らかのサービスを受けるとしよう。
「至れり」か「尽くせり」か、
どちらかを選べるとしたら、
あなたはどちらを選ぶだろうか。

「至れり」は文字通り
「至っている」わけである。
表面上は非のうちどころがない。
ところが「尽くしてくれている」
かどうかはまた別の話である。
万全のサービスを提供しながらも、
そこから「想い」のようなものは
感じることができない。

「尽くせり」のほうはもちろん
「尽くしてくれる」わけである。
確かにサービスが完璧に「至っている」
わけではないかもしれない。
しかし、明らかに心の底から
「尽くしてくれている」のはわかる。

単純に比較すれば、
「至れり」は物理的なサービスの追求、
「尽くせり」は精神的なサービスの追求、
と言えるかもしれない。

あなたはどちらを選ぶだろうか。

ちなみに僕は「尽くせり派」である。