学校の授業で、
「がんばる人だけが生きていける社会は
いい社会とは言えない」
というような話があった。
確かに今はなんとなく、
「がんばらない人は
生きていけなくても仕方ない」
というような空気があるように思う。
もちろんがんばれる人はがんばればいいけど、
そうじゃない人だってたくさんいる。
そしてもっと問題だと思うのは、
がんばっている人でも、
決して幸せそうに見えない場合が
けっこうあるということだ。
じゃあなんのために
がんばっているのだろうか。
そこには「幸せとはなにか」という
本質的な問題があるような気がする。
最近はようやく変わりつつあるけれども、
やはり「幸せ=お金」という考え方が
根強くあるような気がする。
そんなに極端じゃなくても、
「幸せとお金はイコールじゃないけれども、
最低限のお金がなければ幸せになれない」
ということには多くの人が
同意するのではないだろうか。
何かの調査で、
年収がだいたい500万円以上になると、
収入の多さと幸福感が比例しなくなる、
というのがあったような気もする。
でも、あたりまえのことだけど、
「幸せとはなにか」の答えは、
人によって違うはずなのである。
みんながみんな「最低限のお金」を
幸せの条件にしなければならないってのは
なんだかちょっとおかしいんじゃないだろうか。
僕の基本的な考え方として、
「全ての人は幸せになりたい」
ということがある。
もしそうだとしたら、
この「幸せの定義」みたいなことについて
なんだかんだ考えてみることは、
自分の人生を考えることと
おなじようなことなんだと思う。
僕もこれについては
いくつか仮説を考えてみたことがある。
最近思いついた幸せの定義のひとつに、
「心から幸せを願える相手がいること」
というのがある。
この考え方の中には
「幸せは他者の存在なしにはありえない」
ということがある。
この考え方自体は間違ってないと思うのだけど、
なんだかまどろっこしい感じもある。
やっぱりこういうのはシンプルなほうがいい。
で、たとえばこういうのはどうかな、
と思っているのがこれである。
【幸せ】
機嫌がいいこと。
意味なく辞書風に書いてみました(笑)
これは非常にシンプルで
よろしい気がしてます。
こういう定義にしておけば、
なにをどんなに必死でがんばろうと、
あるいはぜんぜんがんばらなくても、
機嫌がよければそれでいいのである。
こうしておくと、
がんばることも、がんばらないことも、
お金があることも、ないことも、
どちらも否定する必要がない。
しかも、「機嫌がいい」ということは、
それを目指して将来的に手に入るものではなく、
その気になればすぐに手に入るものである。
これはとってもラクチンだ。
またこういう定義にしておけば、
たとえ「最低限のお金」がなくても、
機嫌がいい状態を作ることさえできれば
それでいいということになる。
まあそういうような幸せは
たいていGDPには反映されないことなので、
国としては困るのだろうけれども(笑)
たとえ何かのためにがんばっていたとしても、
そのときにもし「機嫌がよくない」ならば、
自分がやっていることが本当に
自分やみんなを幸せにしているのかどうか、
もういちど確認してみたほうがいい。
だいたい「機嫌がよくない」ということは、
それだけでまわりの人の機嫌まで損ねてしまう。
逆に言えば「機嫌がいい」というだけで、
まわりの人の「機嫌がいい」を助けることになる。
それは、自分と他人を同時に幸せにする。
無理して社会一般で言われるような
「幸せ」を目指すより、自分で納得できる
「自分なりの幸せ」ってのを
決めてしまうほうが、案外幸せへの
近道のような気がしないでもないけど、
いかがなもんでしょうか。