11月7日(日)、立教大学で
「講」についての講演会があった。
21世紀社会デザイン研究科主催公開講演会
「現世の静寂に“つながり”を想う-
「講」の知恵を現代社会に活かす道筋を考える-」
「講」ってなんやねん!
それは、かつての日本中の村落社会にあった、
自発的な集まり・助け合いのかたち。
「念仏講」「頼母子講」「看取り講」など、
いろんな助け合いのかたちをもった無数の講があった。
講演は、現代にいまだ残る「講」を描いた映画、
「現世(うつしよ)の静寂(しじま)に」を観たあと、
講師たちの話へと展開していった。
その中でぼくが気になった言葉をいくつか書いてみます。
誰がどの言葉を言ったのかはもうわかりません(笑)
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農村社会=閉鎖的なのではなく
「守るべきものがある」。
日本人は都会と田舎を区別しすぎてる。
長く住むことで、
説明されないものが伝わっていく。
講の掛け軸に、風土、自然が
象徴されているのではないか。
村では、先祖の過ごした「時間」が、
景色の中に蓄積されていく。
82歳の村人が、さらに年長者の死に際して
「82年じゃ(知識、経験が)足りない」。
永遠の世界である村では、
正しい判断をすることより、
禍根を残さないことのほうが大事。
平成の大合併は、流域(自然・風土)
を無視した合併だった。
念仏講では、念仏を唱えることで
呼吸を合わせてからみんなで食事をする。
このことが大事なのではないか。
講につくり方はない。
その人たちが住みやすい環境を、
その人たちがつくること。
助け合って、楽しみ合って、どこかに祈りがある。
そいういうものが必要じゃないか。
家族もひとつの「講」である。
そこには「祈り」がある。
祈りがあるとき、家族は家族らしい。
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現代社会のなかで、人とのつながりを
どうやって結び直していくか。
これがいまの日本における
最も重要な課題なのかもしれない。
こーゆーのは深刻に考えるより、
「いかにみんなで楽しむか」を考えるほうが、
きっとうまくいく気がするなぁ。