忘れられた日本人 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
忘れられた日本人 (岩波文庫)/宮本 常一

¥735
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まぎれもない傑作。
全ての日本人にオススメしたい一冊である。

なんとなく、今の社会がしっくりこないとか、
生きづらいなーと思っている人は多いと思う。

この本を読んで、
昔の日本人がどのように暮らしていたか、
どのような思想を持って生きてきたかを見れば、
その理由が少しわかるかもしれない。

日本社会がすっかり西洋化してしまったいま、
僕たちのDNAをもういちど確認する作業が
必要なのではないだろうか。

まさに「いま」読むべき本だと思う。

笑って、泣けて、下ネタもアリ。
民俗学の資料としても一級品なのに、
とっても読みやすい。

著者である宮本常一さんの
あたたかい人間性が感じられる、
本当に素晴らしい本だと思います。


満足度
★★★★★

●引用メモ
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村でとりきめをおこなう場合には、
みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。(p13)

領主ー藩士ー百姓という系列の中へおかれると、
百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員
ということになると発言は互角であったようである。(p20)

第一農家はほとんど時計をもっていない。
仮にあってもラジオも何もないから一定した時間はない。
小学校へいっている子のある家なら多少時間の観念はあるが、
一般の農家ではいわゆる時間に拘束されない。(p28)

他人の非をあばくことは容易だが、あばいた後、
村の中の人間関係は非を持つ人が悔悟するだけでは
解決しきれない問題が含まれている。(p39)

こういう世話役は人の行為を
単に善悪のみでみるのではなく、
人間性の上にたち、人間と人間との関係を
大切に見ていく者でなければならない。(p42)

わたしら貧乏だったし、
それがまたあたりまえと思っていたから、
別に不幸もなかったが、いま思うと、
よう辛抱したもんであります。(p72)

今でも腰巻は日かげに乾す。
どうもお日さまによごれたものを向けては
申しわけないと思っていますで……。(p81)

ここからこうして見える限りの家というものは
今一つとして気の毒なということはありません。
この山陰に一軒気の毒なのがありましたが、
それも息子がやっと一人まえに働けるようになって、
もう大丈夫でありましょう。
これがこの世の極楽であります。(p95)

男がしのんでいっても親はしらん顔をしておりました。
あんまり仲良うしていると、親はせきばらい位はしました。(p98)

話も十分にできないような田植方法は喜ばれなかった。(p123)

女たちのエロばなしの明るい世界は
女たちが幸福である事を意味している。(p130)

こういう人たちは一般の動物にも
人間とおなじような気持ちでむかいあっており、
その気持がまたわれわれにも伝えられて来たのである。(p202)

世間のつきあい、あるいは世間態という
ようなものもあったが、はたで見ていて
どうも人の邪魔をしないということが
一番大事なことのようである。(p209)

天狗にことわりを言わないで伐ると、
大てい伐りたおした時にはねとばされるか
木の下敷になったものである。(p227)

狼の悪口も言わず、狼の気にさからうような
事をしなければ、狼は逆に人を守るものであった。(p228)

文字に縁のうすい人たちは、自分をまもり、
自分のしなければならない事は誠実にはたし、
また隣人を愛し、どこかに底ぬけの明るいところを
持っており、また共通して時間の観念に乏しかった。
(中略)「今何時だ」などと聞く事は絶対になかった。
(中略)ただ朝だけは滅法に早い。(p270)

この人たちの生活に秩序をあたえているものは、村の中の、
また家の中の人と人との結びつきを大切にすることであり、
目に見えぬ神を裏切らぬことであった。(p289)

「私は長い間歩きつづけてきた。
そして多くの人にあい、多くのものを見てきた。
(中略)その長い道程の中で考えつづけた一つは、
いったい進歩というのは何であろうか。
発展とは何であろうかということであった。
すべてが進歩しているのであろうか。
(中略)進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも
進歩と誤解し、時にはそれが人間だけではなく
生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつ
あるのではないかと思うことがある。
(中略)進歩のかげに退歩しつつあるものを
見定めてゆくことこそ、われわれに課されている、
もっとも重要な課題ではないかと思う」(p333 解説)