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「社会学入門」といえば、用語説明みたいなのが
メインなのかとおもいきや。
いつのまにやら人類の
大命題に巻き込まれているような、
それはそれは壮大で、あまりに深い内容でした。
かなり面白いですが、3回ぐらい読まないと、
どうも理解できそうにないです。
「そんなん入門書ちゃうやん!」と思われそうですが、
どんなに基本的なことを押さえていても、
面白くなければ、入門書としては下の下でしょう。
作者が、「ほんとうのこと」を書こうとしていることが、
ダイレクトに伝わってきます。
社会学に少しでも興味がある人は、
ぜひ読んでみてください。
以下、気になったポイントの引用です。
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余談ですが、卒業論文とか学位論文を書く人は、
十分な余裕をもって事を進めて、少なくとも一度か二度は、
これまでやってきたことを潔く全部捨てて、
新しく、出発し直す、くらいの気持で新鮮に再構築を行うと、
スカッとしたよい仕事ができます。
せっかくこんなに読んだのだから、
書いたのだからと、ケチケチしてはだめです。
大胆に捨てたものは、必ずどこかで見えないところで、
栄養になっています。(p10)
ひとりの人間にとって大切な問題は、
必ず他の多くの人間にとって、
大切な問題とつながっています。(p12)
自分の問題意識にしたがって、
生と死を論じニヒリズムを論じ、時間を論じ自我を論じ、
幸福を論じ欲望を論じ、愛を論じエゴイズムを論じ、
真核細胞の生成を論じ生命のテレオノミーの解放系を論じ、
人間と人間でないものとの共生を論じても、
「それは社会学の主題ではない」と禁止されることはなかった。
これは例外のことでなく、社会学を学ぼうとする、
すべての人が期待していいことです。(p13)
「世間」とは、柳田国男らの民俗学が
あきらかにしているように、
元来、共同体の外部を指す語であった。
(「世間噺」「世間通」とは、ムラ共同体の
外部世界の話であり、外部の事情に通じた者である。)(p21)
バスを待つ時間はむだだという感覚はなくて、
待つ時には待つという時間を楽しんでしまう。
時間を「使う」とか「費やす」とか「無駄にする」とか、
お金と同じ動詞を使って考えるという習慣は
「近代」の精神で(“Time is money”!)、
彼らにとって時間は基本的に「生きる」ものです。(p32)
もう一つ面白いのは、ごちそうを
「自分の死者たち」の数よりも一人分多く、
余分に作っておくのだそうです。
どの生者にも呼び出されない孤独な死者たちもいるので、
そういう死者たちがうろうろしていると、
どこかの家族に呼び出されている死者の一人が、
「おれと一緒に来いよ」といって誘うのです。(p36)
インディオが社会の近代化の中で、
生活を合理化しようとすれば、
真っ先に削り落とされるのは、
この「余分の一人分」でしょう。
けれどもそのときこの社会からは、
何かある本質的なものが、
削り落とされることになるだろう。
人生は何かを失うことになるだろう。(p38)
社会の「近代化」ということの中で、人間は、
実に多くのものを獲得し、また、実に多くのものを失いました。
獲得したものは、計算できるもの、目に見えるもの、
言葉によって明確に表現できるものが多い。
しかし喪失したものは、計算できないもの、目に見えないもの、
言葉によって表現することのできないものが多い。(p38)
この地域でだけ貝紫が今も生きつづけているのは、
制度でなく、計算でなく、存在するものたちに対するデリカシー、
世界に対する感受性の強さ、鮮烈さのためだったと思います。(p60)
一人の異質なものの存在も許さぬ、という仕方で、
仲良く安心して眠っている村の共同体と、
針で指紋をつぶした女生徒、
アメリカに帰って行ったアメリカの青年は、
同じものの、うらおもてです。(p104)
アメリカと西ヨーロッパは、
その情報と消費の水準と、なによりもその
「自由な社会」であることの魅力性において、
冷戦の相手を圧倒したのです。(p135)
「軸の時代」の、巨大な思想、宗教、
哲学が解決し残した一つの問題、
それが「関係の絶対性」の問題でした。(p137)
被支配者の自立のために
支配者がなしうることは、
支配者自身が自立すること、
被支配者への依存をやめることです。(p140)
「現代」と呼ばれる時代は、この「近代」の
加速度的な増殖の最終的な局面であると同時に、
この増殖に絶対的な「限界」の存在することの知覚の、
共有されはじめた局面であった。(p147)
第0次産業革命の結実である<道具>と<言語>は、
「現代」に至る人間史のあらゆる局面の前提であり基底音である。
第一次産業革命の結実である<農耕>と<牧畜>は、
余裕のある人間生活の基礎として、工業化や情報化の
あらゆる華麗な展開をステージの下で支え続けた。
第二次産業革命の結実である<工業>生産力は、
今日もなお「情報化」諸技術の先端的な展開の、
ハードな前提でありつづけている。
「現代」社会は「近代」社会の一部分であり、
「近代」社会は「文明」社会の一部分であり、
「文明」社会は「人間」社会の一部分である。
そしてその「人間」社会は、地球還流の一部分である。
「継起的」でなく「重層的」であるということ。(p160)
それがどのように思いがけない
形態をとるものであっても、
それは一つの永続する<共存>の
技術でありシステムであるはずである。(p165)
他者は第一に、人間にとって、
生きるということの意味の感覚と、
あらゆる歓びと感動の源泉である。
(中略)他者は第二に、人間にとって
生きるということの不幸と制約の、
ほとんどの形態の源泉である。(p173)
他者が他者として、純粋に生きていることの
意味や歓びの源泉である限りの他者は、
その圏域を事実的に限定されている。
これに対して、他者の両義性の内、
生きるということの困難と制約の
源泉としての他者の圏域は、
必ず社会の全域をおおうものである。(p176)
「ルール」とは、他者の歓びが自己にとっては歓びでなく、
自己の歓びが他者にとっては歓びでない限りにおいて、
必要とされるものだからである。(p196)
満足度
★★★★☆
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