怯えの時代 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
怯えの時代 (新潮選書)/内山 節

¥1,050
Amazon.co.jp


いま通っている大学院で、
一番面白い授業の先生が書いた本。

哲学者という人種と実際に関わったのは
もしかすると初めてかもしれないが、
やっぱりとんでもない。

授業を受けるたびに、
自由の幅が広がった気がして、
頭がクラクラする。

この本の内容は僕の得意な分野ではないが、
これからの時代を俯瞰する上で
欠かせない視点を与えてくれる。

以下はほとんど僕の個人的な忘備録です(笑)
------------------
ここから垣間見られるのは、
短期的な善が長期的な悪に転ずるという構造である。


たとえば経済の発展は善としてとらえられてきたが、
それこそが悪の正体かもしれない。
科学の発展もまた善であったが、
もしかするとそこにこそ悪の核心があるのかもしれない。
少なくともそういうことをも考えなければ
ならなくなったのが、二十一世紀の時代である。


子どもが大人になるには、
ある程度の時間量が必要なように、
すべての変化は対応していくのに必要な
時間量が確保されていたかどうかで、
たとえどんな変化でも悪になってしまうのである。


・・・私たちは「悪」の時代に生きていると
言った方がよいのかもしれない。
なぜなら変化に対応する時間量を保証しない変動は、
人間にとっても自然にとっても「悪」でしかないからである。


人はわからないから不安になり、不安に怯える。


国民国家もまた同じだった。
それはすべての人間を「平等な国民」としてバラバラにし、
国家システムで統合していく仕組である。


私たちに「発展」と「自由」を与えてきた原理が、
私たちの未来を閉じさせている。


巨大技術や巨大システムは
人間を無力な存在に落としていく。
私の目にはそう映る。
巨大な国際金融システムが破綻をはじめた現在、
個人としての私たちはその動きに対して
どうすることもできないでいるように、である。


日本では庶民の信仰と娯楽は一体となっていることが多く、
いまでも祭りは神様を降ろして祀る神事であり、
同時に娯楽であるという性格をもっている。


「温かいお金」は、自分の存在を包む関係が
みえているローカルな世界にしか生まれない。


近代世界は人間と人間の結びつきや
自然と人間の結びつきを、商品の結びつき、
市場での結びつき、巨大システムによる管理に変えた。


本書のなかで私が述べようとしたことは、
近代から現代にむけての発達原理が今日では
劣化原理として働いている、ということである。


世界はこうあるべきだ、というような
発想自体が、近代主義の枠内である。


自然と人間が存在するというそれ自身の内に
矛盾が内在しているのである。そうである以上、
矛盾とつき合っていくことが連帯である。
------------------


満足度
★★★★☆


マナブは音楽活動もしています。
http://wacca.fm/a_music/manabu/list