石井光太 著

ポブラ社

 

銃ではなく、本とペンを。

戦場ではなく、学校を。

 

ノーベル平和賞受賞のマララ・ユスフザイさんの国連演説をもとに、ノンフィクションライター・石井光太さんが、

 

「教育とは何か」

 

について熱く語っている1冊です。

 

「なぜ、学校へ行くのか。」

「教育とは何か」

 

どちらも、私の頭の中で常にグルグルしている”キーワード”です。

 

私は、子どもの頃からずっと「学校」と「教育」が好きです。なぜ好きなのかということは、イマイチ的確な言葉で表現できずにいるのですが・・・

 

私は、「学校」と「教育」を抱くことができるのです。

 

だから今もなお、私は「学校」と「教育」に、様々な形で関わっているのだと思います。

 

 しかし私の周りにも、学校嫌いの友達は沢山いましたし、不登校の子ども達が沢山いる現実もあります。

 

(*2017年2月 「教育機会確保法」不登校の子ども達を支援する目的で新しい法律が施工されました。)

 

かつて、不登校(小学生)の居場所作りのボランティアとして、フリースクールに関わった経験からも、私が好きな「学校」や「教育」が、決して誰にとってもいい役割を果たしてはいないことを十分に心得ているつもりです。

 

そして、不登校の背景も様々であることを思えば、うかつなことを口にするつもりもありません。

 

しかし思うのです。

 

不登校

 

これは、あくまで学校が登校しなくては行けないところだから、そう言うのでしょうが・・・

そもそも、なぜ、学校へ行くのか

という問いに、私たちは答えを持っているのだろうか・・と。

 

子どもは、教育を受ける権利があるから?

 

大人は、子どもを学校に行かせる義務があるから?

 

これは「権利と義務」の話であって、「なぜ?」に答えるには不十分であると思うのです。

 

マララさんは国連演説の中で言っています。

 

世界にはまだ多くの不平等があります。

たくさんの子どもが、

貧困、差別、不正、無学などに苦しんでいます。

だからこそ、

一人ひとりが立ち上がり、

声を出していかなければなりません。

声を出して世の中を変えていくべきなのです。

 

そのために必要なのは、まず、学校と教育です。

わたしたちは、

ことばによって自分の気持ちを

表せるようにしなければなりません。

 

一人のこども。

一人の教師。

一冊の本。

一本のペン。

 

それさえあれば、わたしたちは

ことばをつかうことができるようになり、

声をあげて、

世界をよりよいものにしていくことが

できるのです。

 

(抄訳=石井光太)

 

と・・・。

著書の中では、ノンフィクションライターの石井光太さんが、マララさんの演説を受け、そして自身が世界を見てきた視点から、「なぜ、学校へ行くのか。」について、子どもたちにもわかるように丁寧に語ってくれています。

 

私は「学校」と「教育」に夢を抱くことができるといいながらも、うまく言葉にして表現することができなかったので、石井光太さんによって明瞭に表現されているこの一冊は、感動の1言に尽きます。

 

当然、目下オススメの一冊です!

 

しかし私が本当に大切だと思っているのは、

「なぜ、学校へ行くのか」という問いに対する答え安易に得ることではなく

「なぜ、学校へ行くのか」という問い自分ごととして、しっかり自分自身の中に持つこと

だと感じています。

 

 

学びに向かう力

  ↑

学びの基本は「なぜ・なに」

 

 

であるとすれば、そもそも「なぜ、学校へ行くのか」から、問うことがきっと、子ども達にとって大切なことなのだ。

 

・・・と、素敵な本に出会って思う今日この頃なのです。

 

 

 

 

 私は、寝かしつけが苦手です。

おそらく、保育の中で最も苦手な行為です。(笑)

 

私に触られて興奮するのはなぜだ?

手の先からなにか良からぬビームでも出ているのか・・・?

 

私が眠そうな顔をすれば、子どもたちもつられて寝てくれるのか?

 

無表情になってみようか・・・。

 

ティッシュで顔をサワサワすると寝るらしい!

やってみるか・・。

 

この本を読めば必ず寝るらしい。

よしよし読んでみようじゃないか!

 

 

手を替え品を替え・・・。

でも、思うように寝てくれない日々

 

当然私は、自信を失う

そして私は自信回復の為に、「何もしなくても寝る子ども」トントンしては寝かしつけの実績とし、最低限の自信を保持する。(笑)

 

 

午睡の時間帯・・・

私は一人格闘”しているのです。(笑)

 

 

んなある日

午睡の時間に、寝ずに遊んでいる2歳児の男の子に向かって、

 

「寝ないなら、先生がK君のお布団で寝ちゃうよ!」

 

と言ったのです。

 

本当は・・・

 本来なら・・・

 

私はこういう言い方が好きではありません

でも、万策尽き果てた 私には、もうこの言葉しか残されていませんでした。

 

すると遊んでいたK君が笑顔で、

 

「いいよ!」

 

と言い、こともあろうか、私にお布団を掛けて、トントンしてくるではありませんか・・・。

 

そして悔しいことに、トントンする彼の手からは、優しさがじわじわ伝わって来るのです。

 

彼は特にふざけていませんでした。

彼はただ、優しい気持ちで、私を寝かしにかかっていたのです。(笑)

 

私は、もはや引き際を失い、2歳児にトントンしてもらう逆転現象に、しばし身を委ねたのでした。(笑)

 

しばらくして、私は彼に「ありがとう」と礼を言い、私が彼にトントンする本来の姿に戻ったのです。


おそらく、寝かしつけに対する苦手意識は、私から”余裕” と ”相手への思いやり”奪い、

寝かしつけに躍起になる私

を生んでいたのでしょう。

 

彼の優しい手の感触を体に残しながら、私は反省しました。

 

どんな時も、

 

「余裕」

「優しい気持ち」

 

を忘れてはいけないな・・・と。

 

 

今も時々、彼の優しいトントンの手とともに、この出来事を思い出すのです。

青空に

優しい風

遠くに聞こえる

電車の音・・

生活の音・・

 

日中、久しぶりに家にいる今日の私は、午前中からマンションの屋上にお布団を干し洗濯物を干し、ベランダで土いじりをしました。

 

(普段は、布団乾燥機に室内干し、土いじりなどしない私です。)

 

まだ半日しか経っていないのに、私はすでに自分が、豊かな暮らしをしている優雅な人間に思えている最中です。(笑)

 

え?

これだけで?(笑)

 

きっとこの暮らしを毎日できている人は、これを

 

普通の暮らし」

平凡な暮らし」

 

と呼ぶのでしょう。

 

 

しかし、私は10数年前からか、「世間でいう普通」とか「世間でいう平凡」が、えらく難しくことに思えているのです。

 

普通に家庭を持ち子を育て、

普通に仕事と家庭を両立する。

仕事では年相応に結果も残し、

家に帰れば普通にお料理をして、

緑を愛でたりする暮らし。

 

きっと普通に出来ている人もいるのかもしれません。

でも正直、私にはなんだか、普通には出来そうにないなと思えたのです。(笑)

 

そもそも、

普通ってなんだ?

 

 

婚姻率1つをとっても、内閣府の調査によれば、2015年の「5.1」という数字は、1970年代前半の半分の水準とのこと。

おそらく、その他多くの事柄においても、時代とともに変化しているはずです。

 

しかし恐ろしいのは、こんなにも明らかな数字が出ているにもかかわらず、

言葉遣い

を変えないこと!

 

言葉遣いを変えないということはつまり、

過去の既成概念そのまま今も適応し続けているということを意味しているのです。

冷静に考えれば、そんな無茶な!という話だと思うのです。

 

私は「言葉」とても大事だと思っています。

 

何気なく使っている「言葉」が、「価値観」として、自分にも、他人にも、社会にも影響していきます。

そしてさらに恐ろしいのは、自分で吐いた言葉の呪縛から逃れられなくなる

そして自己を否定し、自己肯定感の低い人間が次から次に生みだされる。

そしてその大人が子を育て、さらに自己肯定感の低い人間が作りだされる。

 

怖すぎます・・・

 

だから、私は

「普通という呪縛」

から逃げ出すことにしたのです。

 

「自分の普通は、人の特別」

「人の特別は、自分の普通」

 

もっと謙虚に、そして客観性をもって、自分の暮らし・生き方の良さを受け止められるようになりたい。

 

そしてなにより、「普通」なんていう言葉の暴力振り回さないようにしたいな・・・

と思う、5月の昼下がりなのでした。