レッテルのお話。
レッテルを貼ると言うとあまり良い印象の
無い行為なのですが、生きる上での判断と
しては間違いではないと思うのです。
例えば、猫ちゃんなんかは「この人と一緒
にいた時に嫌な事をされた」と思うと、
その人を警戒したりします。
逆に「この人はこの時間においしいものを
くれる」と思うと、その時間帯になると
擦り寄ってきたりします。
過去の少ない情報、事例からだとしても、
根拠がないとしても、何らかの因果関係を
見出して、自分に取って利となるものを
得よう、損となるものを回避しようという
のは立派な生存本能だと思うのですよ。
例えば、この例えはブログで過去に言った
覚えがあるのですが。
とある国のいち地域にだけ3回海外旅行を
した人が3回ともスリに合ったとしたら、
「海外はスリが多い」と言うと思うのです
よ。
自分の無防備さとか、他の海外に行った
こともない点を棚に上げて。
それは「海外に行くという事態に対しての
自己の警戒レベルを上げる」と言う防衛と
して間違いではないのです。
んで。
そういう人の話を聞かされた人は「こいつ
対して海外経験ないくせに吹聴してるよ。
海外に行ったヤツの話なんて話半分で聞い
た方が良いな」と思うのです。
海外経験を語る人なんてそんなに知らない
点を棚に上げて。
それは「鬱陶しいヤツの話に対して真摯に
受け止めてたらキリがない」という防衛と
して間違いではないのです。
それもまたレッテル貼りですし、そうする
事で自分にとって「不快」をもたらす可能
性を抽出することが出来るのです。
これも挙げた記憶のある例えなのですが。
「腐ったミカン」という言葉があります。
私はそれが使われたドラマだか何だかを
見たことはないのですが。
とある学級のいち生徒が悪いことをした
からと言って、その学級、その学年、その
学校全部が「悪い」と見られた事に対して
教師が放った言葉だと思うのです。
たぶん。
「お前らは腐ったミカンじゃない」とか。
その発言自体、腐ったミカン理論というの
が一般的であると証明しているようなもの
なのです。
こんな悪い生徒がいる学級は、学年は、
学校は、他のやつらも悪くなる可能性が
あるに違いない。
だからそんな学校には自分の子供は入れな
いようにしよう。
そんな学校の生徒とは付き合わないように
しよう。
そう考えて、危機から避けるという本能と
して、間違いではないと思うのです。
レッテル貼り、そんな悪い事ではないと
思っていただけたかしら?
最近の時事ネタで私が貼ったレッテルなの
ですが。
白鵬さんがいる部屋で傷害事件に至る程の
イビリがあって、有罪になったという報道
をけっこう前にみた記憶があるのです。
そのニュースで「白鵬関の部屋で」と強調
していたためか、白鵬の名前を見るたびに
「ああ、イビリがあった部屋の人ね」と
思うようになったのです。
やっぱり角界なんてそうなのね、と思うの
です。
こわいなあ、ダイエットしとこ。
あと、政治家なんて代表格だと思います。
政治資金の個人流用なんて話はあらゆる人
で耳にするので、「どうせ政治家なんて」
と思われ続けるのでしょうね。
「あら政治家サン、どうせ裏ではいろいろ
お金掠め取ってるんでしょうね」
少なくとも私からは。
あと、最近では「東京オリンピック」と
聞くと、東京都知事の件もあいまっての
不祥事続きなので、いいイメージが無いか
と思われます。
我が国で開催された誉れ高き平和の祭典で
はなく「ああ、あのアレね」みたく思われ
ちゃわないか、これからの名誉挽回に向け
て賑わってくれるとよいですね(心なし)。
かくいう私も「昭和のジジイ」とか「クソ
営業の電話交換手」とか「大阪国民」とか
辛辣で悪意のある発言をしていますが、
それもごくごく一部の人から得たレッテル
貼りが原因であるのです。
その連中から受けた印象があまりに不快で
あったため、そういう不快を今後受けない
ようにするため、そいつらと同じ要素を
併せ持つ連中とは疎遠であり続けようと
する防衛本能のためなのです。
それくらい何らかの行動を取る時は自分が
何のカンバンを背負っているかを認識して
ソレに恥じない行為を取らなければならな
いという戒めなのです。
人として素晴らしい行動をし続けるのは
しんどいとしても。
「うわぁコイツやばい近寄らないように
せなあかん」「あらコイツあのヤバイ奴と
同じヤツやん近寄らんとこ」と思われる
ような、レッテル貼りをされる行動は慎み
ましょう。
飲兵衛からのお願いでした。