会津若松妄想の旅・終章ー1 | 幕内秀夫の食生活日記

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「食」にかかわる諸々を綴っていきます

 ごはん、シチュー、鱈の煮物、冬野菜の煮物(大根・しいたけ・人参・昆布・ねぎ)、ほうれん草の胡麻和え

 海から遠いにもかかわらず、会津若松の三大名物料理、鰊の山椒漬け、棒たら煮、こづゆ(ほたて)に出会い、妄想がどんどん膨らみました。食業病でしょうね?きりがないので終わりにしたいと思います。「終章」宜しければお付き合いください。

会津若松の「名物料理」と近江商人

蒲生氏郷と近江商人

 なぜ、蒲生氏郷はわずかの期間で会津若松を東北随一92万石の大大名にすることができたのか?豊臣秀吉の小田原攻めなどの功績から加増されただけではありません。織田信長の人質になった際、信長の商人保護や産業振興策(楽市楽座など)を目にしてきました。多くの大名が農家の年貢に頼っていた時代、その先進性に触発されています。そのため、氏郷は常に「行商人なくして城下町の経営は成り立たない。経営が成り立たなければ国の政治は成り立たない」と考えていました。「行商人」と言うのは、生まれ育った近江(滋賀県)の商人のことを言っています。

「近江を制する者は天下を制する」と言うのはその地の利にあります。滋賀県は日本列島の中央に位置し、列島の北と南、西と東の接点に位置していることから、幾筋の道が交錯する「道の国」と呼ばれていました。それは国を収めるだけではなく、行商人にとっても有利でした。そこで誕生したのが「近江商人」です。

 近江商人の最大の特徴は「諸国産物回し」にあります。たとえば、近江は良質ないぐさが収穫されたことから「畳表」や「蚊帳」などの生産が盛んでした。それを天秤棒にぶら下げて、日本海側の北陸地方で販売し、帰りには日本海の海産物を買い求め、京などで販売する。あるいは氏郷の生まれた日野には塗り物の「日野椀」の生産が盛んでした。それを地方に運び、帰りにはその地方の産物を持って帰り、販売するという行商が行われてきました。会津若松の名産、「会津塗り」などはそこから発展したものです。氏郷はその商人を積極的に活用したことで、城下町の発展に繋げています。それは会津若松に限ったことではありません。伊勢松坂の城主だったときも同じでした。そのため、今でも松坂では「伊勢松坂の生みの親」、「伊勢商人の育ての親」と呼ばれ毎年「氏郷祭り」が行われています。