THE HUMAN DOWNLOAD(ザ・ヒューマンダウンロード)。意識は共振します。 | 何を相手にしているのか分からない時代への認識の足し

何を相手にしているのか分からない時代への認識の足し

主に形而上の案件とボンクラ主の感想。

今回は意識の共振する性質と、それが自分や現実にどう関わっているのかの考察です。

 

 

 

 

誰しも趣味嗜好があってそれが判断の際に強く影響しています。

たぶんそこを疑問に思う人はあまりいないと思います。

考え方として、私はこういう趣味嗜好や経験を持っていて、それが影響してこの判断をしたのだと、だいたいそんな感覚があり、それを自分だと感じているのだと思います。

 

 

でもですが、その趣味嗜好や自分では当たり前だと思っている行動の根拠になっている、常識と信じている物事。

そういうのが社会的に刷り込まれた洗脳と呼べる影響を主に社会から日々受けていることは、言われてみれば何となく理屈で納得はできると思います。

ただし、今回は何度もしているそちらのくどい話ではありません。

同じく、行動を選ぶ根拠となっている、いわば空気感みたいな話です。

はっきりした判断基準がある訳ではないけど、今は何故かそちらを選びたい気持ちになっているくらいの意味で。

 

 

多分、誰しも学識やコンテンツ、また誰かに感化された経験があると思います。

それも引き込まれる映画とか漫画とか音楽や911や新コロなどの時事みたいに、因果関係の分かり易いものは感化された理由が本人にも分かると思いますが、時代の風みたいに気付いたらそうなっていたという現象は実は普段から起きています。

それが、意識の共振現象です。

どうも大勢の人が一定の方向に認識や感情を向けると、それらが始まる様に思います。

ちなみに、集団に規模に関わらず、個別の集団ごとに、

民族性や国民性などの大きな枠組みから、家族や会社、SNSやらコンテンツなどの小さな枠組みの共有意識など。

 

 

こういったグループが探せば書ききれないくらい山ほどあると思います。

なんで自然にグループができたり消えたりを繰り返すのか不思議に思ったことはないでしょうか?

単に、縁のあった者同士や気の合う者同士が一時的につるんでいる、という認識で納得しているかもしれませんが、実際にはこれらの人同士は同調させる周波数というかその考え方や同調性を通して熱意の程度に影響されたりしながらお互いに共振しています。

そしてそのグループの枠内にて認識や感情を共有し始めるという現象がおきます。

 

 

これは何となく、言われればそうかも?くらいには思える人が多い様な気がしているのですが、実際にはそれがもたらす影響は大きいと思います。

何故なら社会や時事に対する因果関係などの認識上の影響ではなくて、他人との考えがお互いに自分の意志に影響しているだろうからです。

それらを認知上の意思決定として、結び付けたいのが今のアカデミックな世界だと思いますが…

これは単に権威や社会の空気感に同調したり従った、という順応でなくて、実のところ感応現象と呼べるものがあると思っています。

これは精神医学の中では感応精神病という名前が付けられているものが、実際の症状としてあります。

 

 

これは誰かの精神現象が、他人にうつってしまうというものです。

この感応精神病というのは、精神病が他人にうつってしまうという、劇的でネガティブな現象のみをそう捉えているので、よく映画などの題材になったりしています。

病気の捉え方としては、深刻な事態になったので、その深刻な事態に対してどう対処しようか…くらいのところで、たぶん止まっています。

そもそも病気と捉えていいのかすら不明で、医者に意見を求めること自体間違いかもしれません。

これはおそらく人間としての基本的な現象で、おそらく頻繁に起きています。

だから現象だけ見ればヒューマンダウンロードと表現しても大げさでもないのかもしれません。

その影響の現れの強弱はあって、感応精神病の様に劇的なものから微妙にそう感じるくらいまで幅があって、弱いものは影響を受けた、何々にハマった、などとその人の中ではおそらくぼやけた感じで片付けられています。

それらに普通の人が思っていることは、情報を見聞きした結果だと思っています。

私から見れば同調して共振することで意識を共有し合っている面も頻繁にあるだろうと言うことです。

 

 

つまり相手に同調したり心を許すということは、意外と思っているよりは危険な行いで、人々と関わって生きる他ないのでそれは避けられないことでもありますが、その辺を認識していないと相手との力量差が大きかった場合には、意外と簡単に操られてしまうことになるのかもしれません。

男女が愛し合ったり、親が子供の視点に合わせようとする、などは好きに同調すればいいです。

問題は社会から降りてくる、精神への呼びかけです。

だいたいニュースで言っている内容は不安を煽るものだし、映画などのコンテンツは暴力や色事、奇を衒って興味を引く様な内容に満ちています。

直接それらを見なくても、近い友人知人が何人かそれらを語ってきたら…それらに感化させられていると言うことになります。

たぶん一人から受け取ってもそれは弱いと思いますが、10人に知人から受け取ればそれは強力だと思います。

これらはテレパシーに近いものだと思います。

思考を放つ方とそれを受け取る方がいて、放つ方は強く送信する必要があり、受け取る方は同調して受け入れる気持ちを持っている必要があります。

だから、疑い深い人ほどこういうものには強くて、権威などに迎合的な人や、強い不安を感じている人などは、精神感応を受けやすいと言えるはずです。

 

 

これらが何で問題なのかと言えば、自分で気付かない内にプログラムされる危険があります。

気付いていない間にそれが起こり、おそらく本人は自分で選択したと思っています。

そして社会から伝わってくる内容はだいたい人間同士にお互いに疑念を抱かせ、対立させて、分離して、孤立させて、それを自由と履き違えさせる。

ということを繰り返しているからです。

基本的に社会仕切っている人達には悪意があり、人間を集団としてどう操るか、つまり家畜の様に扱うかに腐心しています。

この精神感応にかかるには自ら心を開く必要がありますが、それは不安や危機意識を感じている時に政府になびこうとする傾向も同じことです。

戦争中や会戦間近にその国全体が全体主義や独裁を受け入れ支持することは、歴史的に頻繁に繰り返されてきています。

今みたいな極めて危ない時代に、精神的に操られたらどうなりますか?

私は思想警察か隔離医療のキャンプに送られて、感化させられた人達は

 

財産を巻き上げられ

徴兵されたり棄民されたり

多くが餓死と背中合わせ

 

という憂き目にあうことだと思います。

ちなみにそれら三つとも現在進行中な節があります。

その辺も近い内に触れます。

現代はそれにプラスで予防接種の名目でとんでもない目にあい、環境中には毒や電磁波で溢れかえるという深刻な事態になります。

皆で疑り深くなってNOを言えれば、誰もが長生きできる場合が多くなると思います。

まあ、それが容易でないから今までの歴史がある訳もありますが。

 

 

 

 

ここまでは人間社会の話です。

これをアリの社会で見て見ます。

アリやハチはどうも集団意識と言うものを持っています。

前も一回取り上げたのですが、熱帯ジャングルのアリなどは軍隊行進の様にまとまって移動することがありますが、それらは障害物にあった時には

 

全体が同時に避けます。

 

そうなると個別の判断ではないし、化学物質の放出や音で連絡を取り合っている訳でもありません。

彼らは個別に引き離しても個体としての意識を持っているし、同時に集団としても纏まった意思決定ができます。

ここから見えることはテレパスは実はオカルトなどでなくて、普通に起きている現象の可能性が高いということです。

今回言いたいことの一つは、テレパスを目指しましょう、とかでなくて、そういう側面から起こる無自覚な現象について、危険ゆえに簡単に同意しないことと、自分自身の性質に対する理解を深めて欲しいからです。

特に考え方やその時々の判断、物事の解釈の仕方を自分の意志の様に思いながらも、実はそれが錯覚である可能性があります。

 

 

 

そして今の為政者達ですが…なんだか皆同じような性格や性質を共有している様に見えませんか?

国も人種も生まれも育ちも何もかも違うはずですが、何故か皆驚くほど似ている様に私には見えます。

つまり先ほどのアリと同じで、個別で見れば違う存在だけど、お互いに何かの集団的意識を持っている様に見えます。

 

アシュケナジー系の偽ユ〇ヤが、普通の人間をゴイム(豚)と呼んでいるのを一度は耳にした人は多いんじゃないかと思います。

昔からそんな感じの気質です。

そしてグローバリスト系の政治家やら著名人、シオニスト、ユダヤ人資本家、大企業幹部に王族とか挙げれば切りがないけど要は沢山の人を管理して生活している富豪の人達で、羊飼いと言ってもいい人達ですが…

 

 

(元大統領顧問のブレジンスキーが漏らした一言。 100万人コントロールするより、100万人殺す方が容易 - 00:05:15辺りから、英語>>日本語翻訳でどうぞ。昔は沢山動画があがってましたが殆ど消されてました。)

 

 

 

このトルーマンの言う我々というのはアメリカ人のことではなくて、秘密結社仲間のことだと思われます。

彼らや河野太郎みたいな性質の人を生まれてから一度でも見たことがあるでしょうか?

私は今まで出会った中では一度もないです。

それが、普段見かけることが無くとも、いるところには石の下のダンゴ虫みたいに特定の場所に固まって存在しています。

彼らが統制・統率されている仕組みは具体的には知りませんが、皆が一様に同じ様な性質で似た様な発言を繰り返すからには、この人達は精神感応やらダウンロードされていないか、ちょっと訝しみます。

そうだった場合に、同じ性質と言うからには同じ性質を持つ発信元があるはずで、それこそが人類の敵なのだと思います。

彼らは、楽してお金や権力が欲しくて永遠に支配者でいたいことから、ろくでもない存在に対して心を開いてその性質に対して自分の周波数を合わせたのではないかと思います。

古い言い方で言えば悪魔と契約したと言ってもいいのかもしれません。

決定的な状況証拠はなくて単なる推測ですが、この辺の不思議さは、本当にこの世界を乗り越えたいなら理解しなければいけないのかもしれません。

 

 

 

 

仏教には 心所 という考え方があって、自分の心を分割していくとだいたい50くらいの部分に分かれると言います。

慈悲深い面からネガティブで邪悪な性質まで、プラスマイナスでそれだけあり、それぞれが組み合わさりながらグループを作り、それが個人の性質の現れになっているという考え方です。

 

 

 

ちなみに仏教は宗教に分類されていますが、実際には哲学や自己探求の世界です。

何故なら神さまは出てこないし、行うことはひたすら内省して自分を観察して自己への理解を目的としているからです。

ただし扱う対象が自己と言う意識なのだから、その奥底に近づけば当然に神秘の世界になるために、一般の理解からすれば宗教として扱う他ないのかもしれません。

 

 

その心所ですが、人間ならそのおよそ50の心は誰もが持っています。

その中でどの心を中心に添えて、他を無視したり踏みつけたりするか、ということでその人の個性となります。

精神感応やダウンロード現象、統制された集団意識というものは、これを完全に同期させることで行うことができるのかもしれません。

そのための秘密結社での惨たらしい儀式があり、その頂点にいるのは悪霊という他ないと思います。

くどい様ですが、今のところ確かめ様がないから憶測に過ぎません。

 

 

ちなみにダウンロード現象は古くに倣うと自動筆記や憑依現象などの例が昔からあります。

自動筆記は部分的な、憑依現象は全体を乗っ取ることなので、ダウンロード現象とは少し性質が違いますが、山に籠って別人の様な神懸り的な能力を発揮しだした人は歴史上の有名人で結構いたような気がします。

レオナルド・ダ・ヴィンチもそうだった逸話があったはずだし、現代人でもその現象を受けた天才的な人の話を稀に聞きます。

結局のところ、確かめることはできませんが、逸話を繋ぎ合わせて状況証拠を濃くしていくことはできます。

あやふやな面が多く残ることは、あまり話題に挙げたくなかったのですが、これが起きているなら思った以上に深刻なことです。

基本的に何でもフラットに疑える人もいれば、社会を信じ切ったまま生涯を終える人々が大多数だったりもします。

裏の仕組みに気付いた人が、知ってもらいたく知恵を拡散しようと頑張っても、何故大勢の人達はその重要な話を無視し続けるのかを、単に個人の資質とかで片付けるには何か大事なところが抜けている気がしてます。

 

 

この問題は深刻で、大勢のまま新時代に移行できるかどうかはこの辺の理解にかかっている様な気もします。

それが解けなければ、人類の大半は笛吹きにジョーンズタウンに導かれることに気付かずに大きな犠牲を出すことになるかもしれません。

政府の嘘に気付き始めた人を 目覚めた と言っている人が多くいますが、目覚めの入り口に立っただけで実はそこから先もまだまだ長いのだろうと思います。

 

 

 

最後に上座部仏教のスマナサーラ長老のおはなしをどうぞ。

上座部仏教というのは釈尊の作った戒律を、そのまま守り続けようとする宗派のことで長老派と呼ばれています。

だから仏教としての目的は同じですが、その方法についてはお釈迦様の見解に後から分かれた宗派よりは近いです。

 

そのお立場で、意識とは何か、という仏教の核心の解釈を説明くださります。

元々の仏教の立場なので、個人的にはこちらの意見の方がその本来を純粋に反映しているのだと思います。

ただし、私は仏教徒になれ、と言っている訳ではなくて、内省を中心テーマとするその見解を一度は理解してほしいからです。

 

たぶん日本人の殆どは仏教が何を言っているのか分かってないと思います。

やっていることは自己観察だけで、その方法や見解が内容の殆どです。

だから信仰ではなく、すべて理解です。

自分で納得しなければ意味がない世界で、その考え方は私は違うと思う、という結論になったら、それはそれでいいです。

視点の違いにより見える物が違っただけなので、その人の道を進めばいいですが、長い歴史をかけて培ってきたその意見を聞けることは同意できない人にしても貴重だと思います。

先ほどの心所の話にも少し関わります。

 

 

仏教は意識をとことん分割して考えますので、その点で現代の精神科学よりはよほど科学的です。

ただし分割しすぎて、雲を掴む様な話になっている面もあるので、一面としての真実なのか本当の真理なのかはその人の求める先や理解の程度に寄ると思います。

その叡智がどれだけ深い理解に達していようと、疑いなく受け入れることはやはり良くなくて、飲み込む前によく噛んでバラさなければ、おそらく腑には落ちません。