確たる現実の様で、実際には象徴性の世界でもあります | 何を相手にしているのか分からない時代への認識の足し

何を相手にしているのか分からない時代への認識の足し

主に形而上の案件とボンクラ主の感想。

とりあえずこれから起こりそうなことの解釈と、黙示録中の主要人物の考察などをしたいと思います。

一般的な一神教的な解釈を持っている人からすれば気を害するかもしれません。

 

 

終末予言ですが、これと言うのはもちろん聖書に限りません。

それこそ様々な宗派や信念体系でそれらは語られており、私の知る限りはだいたい黙示録と似た様な出来事を指しているので、おそらく起きている出来事は同じですが、それを異なる視点と観念で見てしまうのでそれぞれにある程度の解釈の差はあります。

ただし聖書は非常に暗い解釈でそれを表しています。

逆にニューエイジなどは非常にポジティブです。

大厄災が起きることはどこも共通していますが、それが世界の終わりと見るか、古い価値観(非常に暗い)の時代の終わりなのかは見る人に寄ります。

なにも必ずしもヨハネ黙示録をベースに見る必要はありません。

それは今のというか、ここ数千年の為政者たちの都合での解釈です。

その上で、

 

何が正しく

何を判断基準にして

自分は何を信じてたらいいのか

 

などの参考の足しになれば幸いです。

それらは自分で決めて、自分でその報酬を受け取ったり、逆にそれが負債なら清算しないといけません。

人間は自分が信じた世界を作り上げるし、望んだことは何でも実現します。

おそらく当人にその感覚はないだろうと思いますが、よくよく振り返ってみれば、自分の進路はその時の自分の認識が作っていたことが、分かる人なら分かると思います。

未来は自分の決意や熱意、認識などが作っています。

何かの観念に囚われている人は、その観念が本当に正しいのか少なくとも一度は疑問に思って徹底的に確かめようとしてください。

でなければその方の進路はもう決まっていて、それはこの現実の延長です。

 

 

 

 

とりあえず黙示録に関係する主要人物からです。

 

今の時事を聖書の引用から、サタンやルシファーとイエスや聖書の神との戦いの様に信じている人が意外と大勢います。

特に欧米で顕著で、日本でもその影響をそのまま信じている人が結構います。

 

ただし、何を信じているのかが、自分で理解していないところが問題です。

それら四人が何者でどういう人となりなのかもよく知らないどころか、伝聞で作られたイメージを答えだと思っていますが、実際のところ、相手のことを何も知らない訳です。

そもそも、それは実在した人物というか存在なのかすら分かりません。

 

ここ数年の流れを見てきた人には分かってもらえると思いますが、ここは虚実入り乱れる中で偽りが主だった騙しの世界です。

本物も確かにありますが、基本は騙しの世界なので、それらは理解しにくいか曲解する様に隠されています。

例の注射を打った人達も、今から言うなら、軽々しく資本家が牛耳る社会やマスコミが作る嘘話や空気感を信じてしまった方々です。

まさか、社会を仕切る存在がそこまで邪悪だとは…と、今から思えばそうかもしれません。

もちろん、責めたくて言っている訳ではありません。

正直不憫に思いますし、打たなかった人もたまたま、怪しいと思える縁に恵まれただけで、時の運と言える面も大きかった様に思えます。

今、悔いているなら、それはその方の責任ではなく、ただちょっと運やタイミングに恵まれなかっただけです。

この世界は基本的には騙しの世界だ、という面だけ念頭に置いてもらいたく思います。

 

私は一神教徒ではなくて、聖書周りなどはコロナ辺りから調べ出した単なる門外漢です。

信仰により私の様な見解に怒りの沸く方も当然いると思いますが、部外者が先入観を抜いて眺めてみた感想なのでそこはご容赦ください。

 

 

 

まずですが、聖書の解釈や正典外典などを決めているのは主にバチカンだと思っています。

イスラムやユダヤにおいてはその限りではないだろうとも思いますが、一般に広まるイメージとして流布されるものについては、そうだと思っています。

で、バチカンは言うまでもなく陰謀団の一角で、それらが作ったイメージを元に特定の存在を善悪で分けて考えています。

ちなみに私としてはキリスト教とキリストは分けて考えていて、キリスト教はイエスの名前を勝手に使っているだけで、ほぼ関係がないとも思います。

実際にイエスは教会を作れ!と言っていないはずです。

つまり、イエスは実際に救世主であるかは別問題として、バチカンに連なる支配者層の長年の主張を聞いていることになります。

イエスの言われることで立派な霊的に深いと思われる語録は多々ある様に思いますが、本人が実在だったのかすら実際には分かりません。

 

 

そして、ここは重要だと個人的に思っていますが、イエスが教会を作れ!と言わなかったなら信仰しろ!とも言っていないことになります。

あくまで私の解釈ですが、そうなるとイエスは教師であって信仰を求めていません。

教師が一番嬉しいことと言えば、生徒の理解です。

信仰と原罪がキリスト教の基本システムですが、個人的にはそれは支配体系の為の道具にしか思えず、暗く歪んでいる様に思います。

 

 

ちなみにユダヤ教の立場からすればイエスは救世主ではありません。

その辺が第三神殿の建設=終末の始まり、の件に繋がっているのかもしれません。

第三神殿の建設が終末の始まりというのは、象徴的です。

第三神殿であるからには何度も壊されている中で、古いシステムの復活というか継続を願う人達が集まってくる繰り返しの歴史な訳です。

それらの人々は沢山いますが、その象徴がシオニストです。

古い仕組みの中に居続けたいと思う人達は、何も為政者の悪人達ばかりではなくて、市井の市民の大半もそうです。

古い仕組みだから悪いとは言いませんが、今の現実は少なくともかなり暗い方向に傾いた世界です。

 

その中で黙示録=秘密の暴露が起きている訳です。

暴露と維持は相反することです。

秘密の暴露をさほど感じていない、感じているのは脅威だけ、と言うならその方の焦点は古い時代の中で快適に暮らすにはどうすればいいのか?ということを考えていることになります。

それは現状の維持です。

現状の方々の向いている先はまだそちらだと思います。

こんな欺瞞や貧困、不安と分断の中で暮らすのはうんざりだと本気で思うなら、暴露される秘密の全てとは言わないですが、大半には気付くと思います。

暴露される内容と言うのは必然で今の仕組みを壊すものなので、というか勝手に壊れている最中ですが、だから行動や認識の向かう先は、今までの維持なのか、それとも完全に壊れた後を見越して、新しい世界を作ることなのか、に分かれます。

 

 

 

 

ちょっと脱線しましたが話を戻して次のサタンです。

これは一説によれば単に敵と言う意味で名詞ではありません。

つまり侮辱語ではあるが、名を持った何者かを表している訳ではありません。

またそれだけではなくて、まだ色々と解釈があるのですが、何よりもまず誰もその実態を知らないし会ったことも見たこともない。

あるのは象徴性だけです。

そもそもヨハネ黙示録は特にそうですが、聖書自体も含めて、殆どが比喩と象徴性の塊です。

だから明快な理屈を求める人ほど、宗教を煙たがって離れていきます。

また、比喩性は気付きにくいかもしれないですが、象徴性に溢れた出来事が実は誰にもあります。

 

それは寝ている時の夢です。

 

夢には意味があるけど、それを読み解くのことは個人個人で異なるやり方が必要になるため難しいです。

(一般的には霊媒やシャーマンが情報を取ってくるのもこの象徴性の世界で、だから言語化できる能力がないと他人に通じる話になりません)

でも、この象徴性や比喩性というのは世の中の至る所に溢れています。

それらはオカルトと呼ばれることが多いですが、それらをちりばめる様に市中のシンボルや生活の中に紛れ込ませているのは為政者達でグローバリスト達です。

彼らはこの世の実態が何なのか、おおよそ知ってて秘密にしているはずです。

これは私が、この世界は共通の夢なのでは?と考える根拠の一つです。

 

 

他人との会話の中で、何かの説明をそれはサタンが…とか言い出したらこいつはヤベー奴だと思って距離を置くでしょうが、心の中に住んでいる原型(アーキタイプ)だったらその説明も受け入れられるのではないでしょうか?

だから別に名前はサタンでなくとも構いませんし、悪魔には他にも沢山の名前がありますね。

でも、それらは全部象徴性に過ぎず、それらが表れる時には私達の心を通して表れます。

黙示録の時代には悪魔が市中をねり歩き、人々を害して回ると言いますが、実際に見てみると、現状は悪魔的な退廃した人間がいるだけです。

世の中にはそれをトカゲ人間だの悪魔が人の皮を被っているだの言っている人もいますが、少なくとも表面上は悪魔的人間がいて、恐怖を煽る劇を見せてくるだけです。

 

 

悪魔的な人間と言うのは古いシステムを代表する、他人には無知であることを求め、恐怖と不安を煽って自分らを頼らせて分断統治する人達でしかなく、一般の人々が知らないテクノロジーと真実を握っているかもしれませんが、単なる退廃した人間に過ぎません。

だから悪魔がどうたら、という話を恐れる必要は個人的にはないと思います。

悪魔はもともと誰しもが人間としての心の中に持っています。

単なる心の葛藤だろ?という話になりそうですが、悪魔は実在するにしてもそれは人々の心の中に住んでいます。

だからプロビデンスの目の様に全部見られているとも言えるんじゃないかと思います。

 

仏教的に言うと、悪魔は悟りに至らせまいと邪魔をしに来る者達を指します。

西洋的な悪魔とは違うし、それこそ古代インドの悪魔は仏陀(釈尊)が苦行の末に見た幻だろう、と簡単に片づけようとする人が多いです。

でも私からすれば、西洋の悪魔も東洋の悪魔も同じ存在だと思います。

悪魔の実在は人の心の中にあります。

と、同時に物的な実体は持たないにしても実在はしています。

心の奥底で巧妙に隠れている多重人格の一人だと思っていいもので、心の弱い者や自我や欲求に負けると、本人が気付くかどうかは別にして、それらが心の主人に取って代わります。

ただそれだけなので、本当は別に怖がる理由などありません。

それらに負けた人間が襲ってきたり脅してきたり最悪で殺されたり、と言ったことはあるとも思いますが、自分に負ける人間は単に弱いだけです。

己に克てる人ははっきり言って非常に強いです。比較になりません。

 

 

 

 

次にルシファーで、ここ数年で悪魔的な人達のことをルシフェリアンなどと言っている表現を見かけた人も多いと思います。

でもルシファーと言う存在は、実は聖書には殆ど登場しません。

 

 

こちらのリンク先にそれに言及した イザヤ書 14:12 があります。

翻訳別にあるので理解しやすいと思いますが、翻訳次第でこれだけ意味が変わります。

そして実際にルシファーについて言及しているのはこの句だけみたいです。

別に悪魔とも堕天使とも言っていません。

そう解釈しようと思えばできますが、それは先入観なしには無理です。

実際には明けの明星を言っているだけと見る方が妥当です。

 

そしてその明けの明星の二つ名を持つ人物が聖書の中にもう一人いて、それがイエスです。

だから

 

キリスト=ルシファー説

 

というものがあります。

明けの明星は光をもたらす者で、それはイエスもルシファーも同じです。

一見するとトンデモな話ですが、ルシファーを悪魔と言っているのは要はバチカンの解釈です。

実際にはそんな句は聖書にないので、悪魔化したことはむしろその明星の存在を疎ましく思っていると言えます。

なにせ聖書での僅かな言及箇所で、聖書的に中心の敵だ悪魔だと言ってしまうのは無理があるので。

そして仏教でも明星を意味する者がいて、それが虚空蔵菩薩です。

知恵を授ける菩薩と言われています。

基本的に明けの明星は知恵の象徴です。

そして聖書で知恵ではありませんが知識を象徴するのは蛇です。

蛇は善悪の知識の実を指して

 

「これを食べるとあなたは神の様になれる」

 

と 創世記 3:1-24 にあります。

一般にこれが悪いイメージで流布されますが、何故知識を得ることが、つまりは知ることが悪いことなのか、一神教の指導職にある人で、誰にも納得できる様な簡潔な説明をしている人を私は知りません。

知ることが悪いのであれば、人間が生まれ育つ意味はなにもなくなります。

それを罪で原罪だと言っているのが聖書の神の主張です。

これは教会システムの教義の根本の一つなので深刻です。

私が聖書の神が無知を好むと、前回言った気がしますがそう表現するのもこのためです。

確かに知識と知恵は部分性と全体性として違います。

ですが知識がなければ知恵に発展しませんのでここを止めようとする存在は…現代に置き換えればそれは専制政治とかファシズムの世界です。

決まってファシストは無知を求めます。

その方が政治がやりやすいので…現代の仕組みと同じです。

 

 

で、逆に悪魔のイメージとされる者が司っているのが知識、または知恵とも言えるので、性質と名目がここで逆転しています。

この世界が騙しの世界なのが理解できるならこの仕組みも納得できますが…

そうでないと言うなら、やはり知識を得ることが何故罪なのかちゃんと説明できなければ、そう流布する者は名目と性質を意図的に逆転させている悪魔的主張をしている事になります。

つまり神と名乗っているのが悪魔で、悪魔とされているのは実は人類の支援者という意図的な曲解があります。

 

 

ちなみに虚空蔵菩薩の梵名が アーカーシャガルバ。

今風に言うならその象徴はアカシックレコードのことです。

永遠に無知でいてほしく、自らの神性に気付かないで欲しい。

それが聖書の神の立場ですが、私からすれば釈尊が悟りを開く時に邪魔しに来た悪魔(マーラ)とよく似た話なのではないの?となります。

人類として悪との永遠の対立点はここにあるんじゃないのか、と個人的には思えてならない気がしてます。

次の引用を苦行中の朦朧とした意識の中での幻や心の葛藤と見るか、それとも心の働きとしての実在として捉えるかでその意味は全く変わってきます。

 

 

>煩悩の化身であるマーラにとって、釈迦が悟りを開くことは自身の破滅につながる。

そこで手始めに釈迦のもとに美しく技に長けた娘たち3人を送り込むが、釈迦は数々の誘惑に屈せず、続いてマーラは恐ろしい形相の怪物たちに釈迦を襲わせるが、なぜか釈迦に近づくことはできなかった。

岩石やありとあらゆる武器を降らせ、周囲を暗闇に覆っても釈迦は動じず、最後はマーラが巨大な円盤を振りかざして向かっていくが、円盤は花輪となった。こうしてマーラは敗北を認め、釈迦は悟りを開いた。

(WikiPediaより引用)

 

 

 

 

 

そして、最後に聖書の神です。

この存在に対しては実体を見たものがモーゼただ一人です。

そのモーゼの質問に対して名乗った言葉が有名な

 

I am that I am

 

の訳される前のヘブライ語です。

私は私だ とか 私はあるとかそんな辺りの意味です。

ここから見るに、自分のことを相手に対して理解できる様に説明する気がない様に見えます。

この辺は知識の実の話とも被ります。

自分の王国でこの存在は知恵者が育つことを望んでいません。

知られることはその身の破滅につながるのかもしれません。

 

この聖書の神に対して言えることはその性質だけです。

 

モーセがそう自称する相手に遭遇してそう言われた、という記録だけです。

私には一神教の人達が、前提として相手を目上というか主として見るので言葉を謙譲語で飾る訳ですが、その飾りを外して、行いや性質だけを見てください、としか言えないです。

その時に、その行いをする者に対してどう思うかが全てです。

 

 

 

ちなみに、基本的に悪魔は真名を悪魔以外に知られると従属関係になってしまうという話が広く知られています。

 

 

どういう存在なのかがバレるとこういう関係になってしまうとのではないかと。

だから現実の闇の部分、今でいう陰謀論の部分は悪魔の名前を知る訳ではありませんが性質を知る事にあたります。

それを知り、悪魔の性質を理解することというのは自分を理解し、結果としてプラスとマイナスの統合に向かうのかもしれない?とも思っています。

個人的にまだそこまでの実感はないですが…

スピリチュアルに偏った人達はその辺が違ってて、ネガティブなことは見ない様に考えない様に、ひたすら幸せな気分を目指しているグループが多い様に見えます。

が、それは正解だとは個人的には思えていません。

引き寄せ的な考え方だけ追い求めるとそうなるのでしょうが。

 

 

 

黙示録に深い関わりのありそうな存在を並べて見ましたが、これらの誰もが誰も見たことも会ったこともなく、何なら顔すら知りません。

だから現代人に取って、それらが史実であったか?とか実在した存在なのか?などと疑問を投げかけるのはあまり意味のない事です。

なにせ確かめる手段がないので。

でも、それらを元にして現実を動かす何らかの存在がいることは確かです。

この星は延々と争いや貧困や差別などがあって、無くなることは一度もなかっただろうから、それらを主導する存在は言ってみれば確実に悪霊の部類です。

本当はそれを悪人の仕業と言いたいところなのですが、計画性が何百年単位だったりと人間業でないので、少なくとも普通の人間には無理です。

 

 

で、これらを見て気付いた人もいるかと思いますが、こういう存在は全て象徴性です。

実在したかどうか、などでなくて、その象徴性が自分や現実にどういう影響を与えるか?ということです。

これはユングのアーキタイプの世界で、集合的無意識の糸を辿っていくと必ず象徴性にぶつかります。

これはトランス状態や夢の世界でもあります。

シャーマンや霊媒も同じです。

それをアカデミックな世界から誰もが理解できるようにしたからユングは偉大です。

その原型の面から見れば、イエスもエデンの蛇もルシファーなども知識・知恵をもたらす=教師と言う面で見れば同じような原型だと言えます。

原型は象徴性ある対象からその性質の中心を抜き出したものだと言っていいと思います。

そうなるとサタンと聖書の神もそのイメージを抜かせば性質としては近いものがあって、それは支配者や統治者のそれであって人間のエゴや自我でもあると思います。

 

 

これらは考え方の問題でもあって、その辺を辿っていくと考え方として人間にとって何が大事なのか?という大問題にぶつかります。

実際に何かを見た時、遭遇した時、などにその人は何を見て判断をするのか?ということに繋がります。

ユングが投げかけた原型はその性質を見ます。

象徴性の大事なところは、それを感じた人の解釈に寄るところです。

正解が何なのかとかの教科書的な話でなく、その人がどういう解釈ができる様に精神的な成長を遂げられるかの方が大事なんだと思います。

 

この象徴性の解釈とは実は夢の解釈などと近いものがあります。

存在の大きなものや、その人にとって意味深く関わりの深いものほど、漠然としたその存在とその内に遭遇したり気付いたりすることになります。

現実世界や夢の中が象徴性だらけというのは、もちろん不思議なことです。

と、同時に大事な状況証拠です。

今はそれが何を意味するのか分からなくとも、その内に必ず理解の足しになると思います。

 

 

 

 

本当は戦争などに関わりそうな時事解釈もしたかったのですが、長くなったのでまた近い内にちょいと書きます。
実際のところ、憲法改正されたなら時事に直接触れる様な話をしていると普通に逮捕されかねないと思うので、何れは危ない時事に触れている場面は削除するかもしれません。

 

 

前回、全面核戦争はないだろうと個人的にそう思っていたので、そう書きましたが、それも7つの封印とラッパと鉢の予言が時系列として連続しているからです。

封印の最後にラッパに繋がり、ラッパの最後に鉢に繋がるからエゼキエル戦争で終末のメインイベントとなると全体の整合性が取れなくなります。

ただし、それ自体がハルマゲドンとなれば話は別で、大半の人達にとってそこでほぼ終わりです。

でも起こるのが全面核戦争では前もって関ヶ原の様に指定されているメギドの丘の地も関係なくなってしまいそうですが、予言と言うのは基本的に部分的に当たるだけで、全体で整合性を取りながら細部まで当たるようなことは基本ありませんので、正直な所、どちらに転ぶのかは終わってみなければ分かりません。

だからまあ、たぶん違うだろうくらいです。

実際に今は緊迫していますので。

と、同時にこの時事の裏で、それを囮にして他の危機の準備も複数同時に行われていることは念頭に置いた方がいいと思います。

敵は陰謀をドミノ倒しの様に組んで準備する名人みたいなもので色々なことが沢山おきます。

日本でもアメリカでも規制や政策が決まった年など遡ってみれば、ざっと見て敵が何十年も前から今に繋がる様に色々と準備を重ねているのが見てとれます。

 

 

何にしても恐怖や不安を感じながら暮らすことはないと思います。

それは良くない生き方でしょう。

ただ、不安なことは不安でどうしようもないでしょうが、おそらく世の中がどういう仕組みで、その中で自分はどういう存在で…といったあたりに自分なりに確信が持てれば、おそらく不安は感じなくなるのでは?と思ってます。

だから私に言わせれば、その辺が一番大事だと思います。