何となく物騒なタイトルですが。
この辺から普通の人がパッと見た分には怪しく見える話が混じってきます。💧
だから一つ前で自分の固定観念に遊びを持たせてね!、みたいな話をしました。
何事にも柔軟に理性と証拠を重んじ虚偽と事実を見定めようと。
これもグノーシス主義の前の前振りであり、基本的な考え方を大きく分けるものとなります。
なぜ前振りが長いかと言えば、千年以上前の話であり比喩やアーキタイプなどが多くを占めるであろうことと、あまりに現代人の一般常識とはかけ離れていることから、柔軟に受け取ってほしいし、現実というものはおそらく一言で説明できる様な性質のものでないのだから、方向だけは見失わずに確立を束ねる様に解釈するものだと肌で感じてほしいのです。
回りくどいことを長々と言ってうんざりさせても何なので先に結論だけ言っておきます。
生きている内に行わなければいけないことと、それは
自己認識をすること
です。
実は私達は自分という存在が何なのか分からないまま一生を終える人がほぼ全員です。
よく考えてみればバカげた常識の中にみな何となく従っています。
自己認識の結果、自分が何者であるのかが理解できれば自然と人生の目的がはっきりしてきて、そのためにやらなければいけないことも思い描くことができる様になるはずです。
ある程度の年齢の方なら何人か臨終間際くらい時期に立ち会った経験はあるものと思います。なら分かると思いますが現代人の死に様は、迷い人そのものです。
死者を冒涜するつもりはないですが、死に際まで自分を確立できないまま、不安と諦めの中でなくなっていく場合が殆どではないかと思います。
グノーシスとはギリシャ語で知識の意味です。
派閥はいくつかあるので、グノーシス主義とはこういうものだ!と一色単には言えません。
あえて定義をするなら知ることで現実からの救済や上昇を目指す運動だと言えると思います。
そして知ることというのは、自己認識が中心になります。
外側の災いや敵についても、言及は多いですがその中心にあるのは自己認識の方だと言えるのではないのかな、と思ってます。
そしてそれが何故極めて重要な意味を持つのか私なりに解説していきます。
これは全てを測る尺度に繋がり全ての認識を変えます。
自分がどういう存在なのかを知らずに、常に何かしら降りかかってくる深刻な問題を解決し続けることは無理です。
それではですが。
皆さま、臨死体験の話は聞いたことがありますでしょうか?
日本だとあまり見かけませんが、欧米文化圏だと結構熱意を持ったコメントや動画などが沢山上がっていて、文化的に一定の関心や支持を得ていると言えると思います。
そのまま信じる必要はないにしても、異なる視点で見るための貴重な機会が得られます。ありがたい話です。
その中で特異な症例がいくつかあって、今回紹介するのは肉体的には死んでいるか脳が機能していないのにその患者は意識があり、手術後蘇生した際に自分の手術の様子や周囲の状況などを正確に覚えていたというものです。
すごく稀な事例でしょう。
私が知っている内では
・エベン・アレクザンダー医師(有名だが…)
・BBCのThe Day I Diedというドキュメンタリー番組の事例
ただし、反論や批判も当然にあります。
私の言うことをそのまま信用しないで、そこは自分で興味を持って検証していただく他ないです。
英語のままの動画なら探せば、まだ出てくると思います。
あれ何かおかしい、と思いませんでした?
と言うかそのままのことを書いてますが、要は脳が医学的には死んでいて手術の間は機能していなかったのに意識があってその間の状況を覚えいたという事例。
一般的には臨死体験は死に際の朦朧とした低酸素の中で脳が見せる幻、というのが一般の医学や科学(を自称している)側の説明だと思います。
それを覆す証拠な訳ですが。
当然にその道の権威やコメンテーターなどが、証明できていない通説で自分側は科学的で相手は非科学的かのように潰しにきます。
まず先に自説を証明すればいいのだけど、曖昧に保つことがその人達の仕事なんですね。💧
まあ、そっちはどうでもいいので、この事例が表すその全てをひっくり返す程をよく見ていきましょう。
まず現代の常識として、脳が意識を生み出しているという一大キャンペーンがあります。
この界隈に興味がなければ、みんな無条件にそれを信じていると思います。
ですが、これらの事例はそれを覆すものです。
ただ、しつこく言いますが判断はその人次第です。線の関係だけで話を受け取ると最終的には批判してくる意見との判断が付きません。
その周辺をある程度以上は知っていてそれを秤に掛けていちいち合致するかを繰り返すことが、ゆるぎない判断に繋がるはずです。
でもって、唯心論的に物事を見る人は、スピ系だの20-30年前ならΩだ壺売りだと散々小バカにされてきたものですが…でも本当のところ、実態は?という話です。
脳が意識を作っている、という話には実は何の証拠もなく、対して先ほどの事例は立派な証拠と言えます。
ただ科学の基本である再現性はありません。
自分の命を賭けるなら実験の機会はもてますけどね。
だから散発的に起きる事例を集めるに留まります。
それでも事例があるとないとでは、論拠は全く違うものになります。
一見、科学的な説明に寄らなくても脳が意識を作っている様に見えますよね?
例えば体の不調やアルコールなどはそのまま意識に強い影響を与えます。
だから意識も脳をはじめとする体が作っているのでしょう、と通説に納得する人が多い。
でも近代以前の社会常識や今でも哲学者なんかは精神が現実を作っているという考えに傾いていたと言えると思ってます。
科学の中でも一番成功したとも言える量子力学では創始者のマックス・プランクが「私の研究の結果からすれば物質など存在しない」と言っていた。
科学の世界は確かな証拠が通説となり世間に浸透していく訳ではないことは、ここ数年の動きを見ていた人ならよく分かる話だと思います。
私達が科学的だと思っていることは世論を操りたい人達の宣伝力でしかないのが実際な訳で、判断する私達が科学的な証明が何かとかにそもそも興味がない。
だから作られた世論を鵜呑みにして、科学の様に見せかけた政治ショーを見せられ…話ずれました。
つまりは周辺の状況証拠を並べている平行線な状況が延々続いているだけで、どちらの側も何も証明できてないと言えると思うのに世論は誘導されて一方に傾いている訳です。
その私達の意識は脳がなくても存在できる、となれば予想できることはなんでしょう?
まず私達は死ぬことがない。永遠に生きる、ことにならないでしょうか?
考え方として近代以前はこんな感じがむしろ主流だったと思います。私達の本質は初めから霊体だということになり、肉体からは影響を受けるだけであり、そして何故か過去の記憶などを忘れています。
何故忘れるのか?というテーマは長いので後でやります。