基本的なことをあやふやなまま過ごしてしまうこと | 何を相手にしているのか分からない時代への認識の足し

何を相手にしているのか分からない時代への認識の足し

主に形而上の案件とボンクラ主の感想。

まずですが、解釈や文献の紹介をする前に基本的な認識の話をさせてください。

 

自分の価値や状況判断基準というのを考えたことのある人はどれだけいるでしょうか?

その自分自身の秤を理解しようと自己と向き合った人はどれだけいるでしょうか?
 
これは実に大事なことです。
 
なぜならその従っている価値観により、その人が認識できる範囲は完全に決まってしまうからです。
その価値観というか殆どの人は考えたことすらないから観念と言った方が適当です。
その観念は成功体験として植えられ、日常の繰り返しで固定観念となって木の様に太く成長していく訳なのですが、大抵の人はこの固定観念を自分自身だと思っている傾向が実に強いです。
なので、その考え方に非難は当然として異論を言われただけで、強張って構えてしまい、深く突っ込もうとすると攻撃されたと感じてしまうことが往々にしてあります。
重要なので繰り返しますが、これはその人の考えられる範囲を決めてしまいます。
 
自分の価値観を捨てろ、などと乱暴なことは言いませんが、ギチギチに構えて自分を縛らず、遊びを残して検証と修正の余地を残しておかなければいけません。
言うは易しですが、実際に拘りなく智慧を求めることは現実には殆どの人ができていません。
そう考える習慣がないからで、疑ったことがないからです。
 
そしてこれは奥が深くて、一見頭が柔らかくて見識が深い人というのが知っている中で何人か思い浮かぶと思います。
ですがその人達も、観察している人よりは柔らかい見方ができているが、ロシア人形やタマネギみたいなもので、一つの壁を潜り抜けたらさらに別の壁に囲まれていた。
でも自力で壁を一つ超えたのだからそこは正解であり、次に見える壁は単なる世界の果てだから越える必要を感じない、と思う人もまた多く、それもまた思考の迷路から結局抜けられてはない。
単に周りの人より一歩抜きんでただけです。
 
だから拘りを持たずに、言われたことを何でもいくつかの異なった角度から検証する、そういう癖をつけることがまず大事だと思います。
そしてこれは、頭の良し悪しでなく単に慣れや習慣の話だと思うのです。
自分自身に対するリバースエンジニアリングと言ってもいいと思います。
バラしてまた組み立てる訳です。
 
 
目的と手段をはき違えるな、と言う言葉を聞いたことのない人はいないと思うし、そこは皆同意するところではないでしょうか。
固定観念と言うのはまさにそれです。
殆どの人は手段を最後まで自分と思い込みながらそれと心中します。
それは芯から外れたことによる歪みを受け止め続けることと同じで辛い人生になります。
 
 
長々と説教くさい話になってしまい申し訳ないと思ってますが、本当に重要でありながら殆どの人が引っ掛かる罠なのです。
私も引っかかっては気付いて抜けようともがく日々なのかもしれません。
 
理性と証拠を重視して、証拠を測る秤自体も他の秤で測り続ける。
そういう癖をつけたいところです。
 
鋭い人なら気付くと思いますが、私達は生まれた時から様々な洗脳と言える認知戦に晒されて今に至ります。(みな最初は気付きません)
人間の安住したい怠惰さから思考の罠に嵌るというだけでなく、人の持つその性質を利用して社会を運営管理したり詐欺を働く人達もいる訳です。
ここ数年のお注射騒動でそれに気付いた人も多いと思います。
だから自らを縛っていることに自分で気付かなければいけなく、それが自己認識の基本であると思います。
よくある物語として人に仕えるために作られたロボットが自らのプログラムを壊して自由意志を持つにいたる。
一種のSFのテーマですが、それは私達も同じだということです。
 
 
一つ誤解しないで頂きたいのですが、これは決して自己否定を勧めている訳ではないです。
そう感じるかもしれませんが、むしろ隠れた自己を発見する方法としてお伝えしているつもりです。
構えず柔軟に自分と対話していただければ、と思います。

いつ始めようが遅いということはないです。