三重大学教授、歴史学者・藤田達生は、備後国・鞆に存在した室町幕府の亡命政権を鞆幕府と名付けた。日本史の中に存在するものではなく、藤田の私見だが、室町幕府最後の将軍、足利義昭がこの地に滞在していたことは史実である。
足利将軍家の家督相続者以外の子息だった義昭は、仏門に入り、覚慶と名乗り、奈良興福寺塔頭の一乗院門跡となった。
兄・義輝が永禄の変で、三次三人衆らに殺害されると、細川藤孝ら、幕臣の援助により、南都を脱出し、還俗した。朝倉義景の庇護のもと、足利義昭を名乗り、その後、織田信長に擁されて、上洛し、15代将軍となる。信長は義昭を自身の傀儡政権とするつもりだったが、対立し、武田信玄、朝倉義景、浅井長政らと信長包囲網を築き上げるのだが、義昭は、京を追われることとなる。日本史では、この時点を室町幕府滅亡と定義づけるが、義昭は京都を追われた後も将軍として、存在し続け、河内国、和泉国、紀伊国を経て、備後国へ下向した。備後において、毛利輝元の庇護のもと、亡命政権。鞆幕府を設立した。
この時、義昭に随行したのは、細川輝経、上の秀政、畠山昭賢、真木島昭光、曽我晴助、小林家孝、柳沢元政、武田信景らであり、幕府としての体をなしていた。鞆は、足利尊氏が光巌上皇より、新田義貞追悼の院宣を受けた足利家として由緒のある場所だった。
10代将軍・足利義稙が大内氏の支援で、京都復帰を果たした縁起のいい場所でもあった。
一方、織田信長と同盟関係にあった毛利輝元も、西に進出する信長との関係が、微妙になり、同盟関係を破綻させ、信長包囲網に加わった。義昭は、輝元を副将軍に任じたが、このことにより、日本各地の足利幕府人脈を輝元も得ることになり、戦国時代の雄として、全国に名を馳せるようになった。
天正4年(1576)義昭は武田勝頼と上杉謙信に対して、互いに講和を命じる御内書を下し、毛利輝元と協力して協力したうえで信長を討つように命じた。天正10年、信長が本能寺の変で、自害した後も、義昭は鞆にいた。
天正15年(1587)3月、豊臣秀吉が九州に向かう途中、義昭の住む鞆の御所に近い赤坂に立ち寄り、ここで義昭と対面した。義昭は秀吉と贈り物を交換し、親しく酒を酌み交わした。
この頃、義昭は毛利氏に願い、御座所を鞆から山陽道に近い沼隈郡津之郷(福山市津之郷町)へと移させた。鞆に近い山田常国を御座所としていた時期もあった。
10月、義昭は毛利氏の兵に護衛されながら、京都に15年ぶりに帰還した。天正16年(1588)1月13日、義昭は、秀吉とともに参内し、将軍職を返上、准三宮の称号を受け、室町幕府は、滅亡した。
常国寺を訪ねた。
常国寺は、現・広島県福山市熊野町にある日蓮宗の寺だ。山号は広昌山。文明18年(1486)建立。当時、沼隈半島一帯を所有していた渡辺兼(山田渡辺氏)による創建。旧本山は京都本法寺。親師法縁。渡辺兼は、若いころ京で日親上人の説法に感動して帰依していた。その後、国に戻ると付近で辻説法をする老僧のことを聞いた。これが日親上人であるとわかると、兼は上人を居館へ招き、上人に寺院建立を願い出た。こうして、常国寺は日親上人を開山として建立された。
備後にもわたなべけんがいたのだ。
山田渡辺氏は源頼光四天王として名高い、渡辺綱を祖とする渡辺氏嫡流とする一族だ。代々、名を一文字にしている。
渡辺持は足利尊氏に従って武功をあげ、備後国深津郡山田荘の地頭職を与えられた。持のあと、忠・直・重と代々続いた。
渡辺元は、義昭に近侍し、身辺警固にあたった。渡辺一族の活躍に義昭が感動し白傘袋と毛氈鞍覆の使用が許された。この二点は守護大名家に許された印で、地方の国人に許されるものではなかった。義昭が一乗谷城に移った時には、幕臣が近侍していなかったよいうことになる。
常国寺目の熊野ダム。鞆からここまで、水路が開かれていた。
常国寺境内横の登山道が一乗谷城へ至る道だ。
備後でおなじみの地神。
山門から境内へ進む。
参道から山門を見下ろす風景。
墓地の入り口
渡辺家の菩提寺・常国寺は、今では、山間部の村にひっそりとたたずむ印象だが、歴史の重厚さを感じる。
岸之坊、山中之坊、山本坊、竹之坊、松之坊の塔頭寺院も存在していた。
常国寺の唐門は、第12世日遼の代に建てられたとされており、日遼が没した享保14年以前に建てられたものと推測されている。
福山市が1964.10.10に重要文化財に指定し、広島県が2022.2.10に重要文化財に指定した。
広島県によれば、
足利義昭の由緒を,享保期の施主と大工が当時の知識と技術で室町時代の建物の形式及び意匠で示したという特色をもつ建造物であるとされ、扉上段の桟の間に桐文様を浮き彫りにした板が嵌め込まれ,中備の蟇股には足利氏の家紋である二つ引両が彫られている。
控柱の虹梁形の頭貫とそれに直交する木鼻は雲形に作られており,大瓶束の左右に付く笈形彫刻も力強く,材質・技法・意匠ともに優れている。
境内に入る
本堂裏に山田渡辺家の墓所がある。
山頂に進むと足利義昭の供養塔がある。
宝篋印塔の上部しか現存していない。
戦前は,高さ30cm1m角の土台の上に宝篋印塔が立っていたが,戦時中に子供らが足利は国賊だと云って塔を谷へ落した。現在は高さ52cmの相輪のみが只一本48cm角の石の上に立っているだけである。
足利尊氏を逆賊とする評価は、徳川光圀の水戸学に由来する。皇統の正統性を重視する学問であり、正統な天皇(後醍醐天皇)を放逐した尊氏は逆賊として描かれることとなった。尊氏逆賊論は継承され、尊王思想が高まった幕末期の尊王攘夷論者により、等持院の尊氏・義詮・義満3代の木像が梟首される事件も発生している。
昭和9年、斎藤実内閣の商工大臣、男爵・中島久万吉は、足利尊氏を再評価すべきという過去の文章を発掘されて野党からの政権批判の材料とされ、大臣職を辞任した。
尊氏ではなく、足利将軍家自体を逆賊とする世相が、子供にまで広がる世論となり、戦前に存在していたことに恐怖を覚える。
鐘楼は福山市指定の有形文化財だ。福山藩家老水野玄蕃の母が施主となり元禄年間に建立された。
番神社本殿も江戸時代中期に建てられた福山市指定有形文化財だ。
常国寺裏山のケヤキも福山市指定重要文化財とされている。
毎年、3月末日、「常国寺二引両祭り」が開催される。この日に足利家ゆかりの品が特別公開される。
ご住職により、ゆかりの品の由来も説明していただける。
この胴肩衣は単衣の麻で,後身頃と前身頃にそれぞれ桐の紋を入れ,義昭の着用したものと伝えられている。渡辺氏がこれを拝領し,彼の菩提寺常国寺へ寄進したと考えられている。ご住職が示されているこの由来書はコピーだが、足利義昭御内書・真木島玄蕃守書状は福山市の重要文化財である。
注目したいのは胴肩衣の紋である。足利家の紋としては、先述の二つ引き紋とこの五七桐紋がある。五七桐紋は、鎌倉幕府討幕の後、後醍醐天皇から拝受された紋だ。やがて、対立する二人だが、この紋は返上しなかった。
この硯箱と硯は、足利義昭愛用のものだ。この硯を使い、日本全国に信長討伐の院宣を贈ったのかもしれない。
この扇も義昭のものだ。
備後の山の中の小さな寺に、室町幕府が、確かに存在していた。
常国寺は日蓮宗の寺だ。