東寺の外周を歩いてみよう。
南大門(重要文化財)
東大門(重要文化財)
創建年は不明だが、現在の建物は、建久9年(1198)に文覚によって再建された八脚門だ。
この東大門が日本史の中の重要な史跡となる。
延元年(1336)6月上旬に足利直義の軍勢が、後醍醐天皇がいる比叡山を総攻撃した。
この総攻撃は後醍醐天皇方の必死の防戦により失敗した。
足利直義軍は、高師重が戦死するなど、大きな打撃を受け、足利尊氏は、直義に東寺まで退却するように命じ、自身も6月14日に東寺に布陣した。
足利尊氏の入京は、後醍醐天皇方にとっては待ち望んでいたことで、足利軍が京都市街に入った後、街道を封鎖して物流を断ち、兵糧攻めにする作戦を立てていた。後醍醐天皇は、東坂本におり、周囲には、新田義貞や名和長年など多数の武将がおり、八幡口に四条隆資、宇治口に中院定平、北丹波から鞍馬口には成良親王と額田左馬助が、それぞれ京都へ入る街道を封鎖した。
足利軍の食糧は日に日に少なくなっていった。京都市街の一般人も餓死する人が多数でてその死肉を食べる人もいたということが伝わっている。南北朝時代の政争は一般人を犠牲にしたものだということを認識しておきたい。
京都市街の食糧不足を知った後醍醐天皇方は、6月29日に足利尊氏が布陣する東寺へと進軍を開始した。翌30日に新田義貞が東寺へと総攻撃を開始した。これにあわせて南から四条隆資も同時に攻撃をする手筈となっていたのだが、攻撃の合図ののろしが上がる前に失火により煙がもくもくと上がったため、それを攻撃の合図と勘違いし、新田義貞の総攻撃よりも早く四条隆資が動き始めた。四条隆資は個別に東寺に向かって進軍したが、土岐頼直に阻まれ、それ以上は先に進めなかった。南を守っていた足利軍の高師直が、北からの攻撃を察知し、すぐに高師泰を東寺方面に向かわせた。
後醍醐天皇方は、大宮通から新田義貞、猪熊通から名和長年が東寺へと攻撃を開始した。新田義貞の攻撃は激しく、足利軍は東大門から次々に東寺の境内に逃げ込んだ。最後の一兵が境内に入ると東大門は閉じられ、その直後に新田軍が放った無数の矢が門に突き刺さった。
東寺にこもる足利尊氏に対して新田義貞は、一騎撃ちをするよう、呼びかけたが、閉ざされた門が開く気配はなかった。
武士は最後は、一騎打ちで勝敗を決するのが作法だったが、源義経が、武士の作法をことごとく破り、源平合戦に勝利したことを源氏である尊氏は受けついだのだろう。
新田義貞は、足利尊氏と一騎撃ちできず、三条河原町から退却した。
新田義貞とともに東寺に攻め込もうとした名和長年は、新田義貞の退却を容易にするため猪熊通の木戸を閉ざし、足利軍と戦った。孤立した名和軍は、次々と討ち死にし、長年もこの戦いで戦死した。
後醍醐天皇方は、結城親光、楠正成、千種忠顕、名和長年を南北朝政争で失うことになるのだが、4人には、それぞれの名に「き」と「くさ」の文字が入っていることから、三木一草と呼ばれている。
この戦いから東大門は開かれることなく、不開門となった。この出来事は、東寺を守ることにもつながった。もし新田義貞が境内に侵入していたら東寺は戦場となり、寺院は戦火で焼かれていたかもしれない。後に起こる応仁の乱では多くの寺院が焼けたが、この戦いの後、東寺と足利尊氏の関係は親密となり、東寺は尊氏から多くの寄進を受けることになる。
この戦い以降、東寺の東門は開かれることがなくなり、「不開門」と呼ばれるようになった。。
平安二宗の中で、真言宗・東寺は時勢に即応できる体質を身に着けたが、比叡山では、力を誇示するため、武力を包含した。東寺という仏教施設が戦乱の中で、重要なロケーションを占めることが、信仰とはまったく違う立ち位置に存在したことを理解しなくてはならない。平城京以来、仏教は政治の戦術であり続けたことを意識しなければならない。仏教が伝来しなかったら、戦争も怒らなかったのではないかと考えている。