高木百拙と玄忠寺~芸術の街・鳥取 | 大根役者

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玄忠寺庫裏に、高木百拙の作品が展示されている。

高木百拙の名で知られる高木啓太郎は、大正5年(1916)倉吉で生まれた。

戦前に大陸に渡り、敗戦後、シベリア抑留を経験した。帰国できたのが、昭和23年だった。1倉吉でカメラ店を開き、民俗写真、民俗風景の撮影に熱中した。写真は独学で始め、同じ、鳥取生まれで、鳥取を中心に活動をしていた塩谷定好や植田正治との親交を通じ、技術を磨いた。同好の仲間と「光画クラブ」というアマチュア写真集団を作ったことが、高木啓太郎が高木百拙として世に出るきっかけとなった。

「光画クラブ」には、戦後、大正9年に創設された鳥取の芸術団体「砂丘社」復興にかかわった画家・徳吉英雄も参加した。高木百拙はカメラ店の他に民芸品店、画廊、喫茶店、蕎麦屋も経営し、その店が、鳥取の芸術家たちのサロンとなっていった。

高木自身も昭和44年に大山参道の地蔵を撮影した「新雪地蔵」を出版した後、墨絵、水彩画、油絵、書、焼き物など、幅広いジャンルに表現の場を求めていった。

 


親交のあった第207代・208代東大寺別当の清水公照にならって、土をこねてつくった「泥佛」をつくるうちにシベリアの収容所で過ごした仲間たちの顔が浮かび、「シベリア達磨」と呼ばれるシリーズが作られた。

高木百拙の作品には、シベリア抑留の過酷な経験が包含されている。清水公照の養子となり、元東大寺塔頭宝厳院住職で、東大寺学園常任理事となった清水公庸は高木百拙の三男だ。

玄忠寺は、永正5年(1508)、深心大忠大和尚による開山の浄土宗寺院だ。当初は、鳥取城下場所の高浜地にあったが、万治3年(1660)、鳥取市内薬師町で発生した大火災により類焼し全焼し、伯耆街道から城下に向かう玄関口にあたる現在地(新品治町)へと移転した。

明治時代になり、廃仏毀釈の煽りを受け、玄忠寺の庫裡は、明治5年から25年まで小学校の校舎として使われた。鳥取県内初の小学校となり、多い時には300人以上の生徒が通っていた。庫裏内にその面影が残されている。

本堂から、庭を眺めてみた。伯耆街道により、発展した因幡国のことを思い起こしてみた。

鳥取に芸術の素地ができていく経緯を想像してみた。Yahoo!ショッピング(ヤフー ショッピング)

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