縮景園~広島市中区幟町 | 大根役者

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縮景園を訪ねた。コロナ禍中、閉園を余儀なくされていた。久しぶりの散策だった。紅葉の季節にかろうじて間に合った。

浅野氏三世であり、初代広島藩主浅野長晟は元和5年(1619)広島入封間もなく、上田宗箇に命じ、庭園の造営に着手した。上田宗箇は上田重安といい、秀吉の直臣だった。上田重安の妻は、秀吉の妻、高台院の従弟である杉原長房の娘で、浅野長政と長政の嫡男、紀州藩主浅野幸長の嫡男長晟は、それぞれ長房の娘を養女にしていたため、浅野家と重安は姻戚にあった。上田重安は、千利休、古田織部に師事し、茶道を学び、関ヶ原後、剃髪し、宗箇と名乗り、茶人、造園家として、知られていたが、浅野家に乞われて家臣となり、家康の許しも得て、還俗していた。広島藩では一万石を与えられ、家老職として、迎えられていた。

宗箇の描いた庭園は、現在より、もっと、豪壮なものであったと推察されているが、この庭園は歴代藩主により、改修、補修維持がなされてきた。九代重晟の時代に、現在の姿tなり、完成された。

重晟は捕囚造営にあたり、名匠清水七郎衛門を用いた。奇岩を配置して、奇抜さを強調しない配置は重晟の意図を汲んだものだ。

跨虹橋も庭園の美に溶け込んでいる。

縮景園は、中国西湖の情景を模したもので、縮景園と言うのだが、広島市民は泉邸と呼んだ。面入口より左回りに回遊するのがいい。

清風館から、丹楓林を過ぎて、映波、昇仙、望春の三橋を越え、名月亭方向に進み、茶園、薬草園を通り、入り口に戻る。

園外には、広島駅発着のJR、二葉山、二葉の里、大須賀、牛田の市街地が見える。

 

頼山陽の父、頼春水は

「名月亭の地また爽やかな高台をなし、眺めが広い。園外の東北に田野が開け、山は連なり、川は

その下を流れ、宮あり、寺あり、樵の路通じ、釣り船は上下し、舟歌も聞こえる。春は前岸の桃花その幾千株を知らぬ」

と詠んでいる。

 

市街地の真ん中にこんな素晴らしい庭園を有していることは広島の誇りだ。