小泉八雲旧居~島根県松江市北堀町 | 大根役者

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日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に

山陰側の国道9号線と山陽側の国道二号線をつなぐ国道54号線が全線開通したのを機に、広島と松江の小学校の修学旅行交流も記念行事が行われた。僕が在籍していた袋町小学校が選ばれ、松江からは松江小学校が選ばれた。それまで、京都だった修学旅行はその年だけ、松江になった.。お互いにエール交換の意味で、修学旅行生同士の文通交流が旅行前にあり、修学旅行後に感想を交換した。その時に文通を開始した女の子とは、大学に入るまで、文通を続けた。

 

修学旅行では、松江と出雲を訪れた。バスガイドさんの日本海からの風を防ぐ『築地松』の話や『ぼてぼて茶』の話を、なぜかよく覚えている。

最初に訪れたのは小泉八雲旧居だった。小学生にとって、小泉八雲の書く話は、『耳なし芳一』とかの怖い話で、作者も恐怖の対象だった。お化け屋敷のようにドキドキしながら門をくぐった。家にあがると庭に暖かい光が差し込んでいる落ち着いた家だったことを覚えている。広島城付近は原爆スラムが続き、空き地の中にバラック建てがある風景が、見られた時代に松江城の堀沿いに続く風景は別世界のように美しく落ち着いた風景だった。

 

小泉八雲旧居を訪れたのはその時以来だった。昭和15年に国の史跡に指定されていたが、学芸員の方に聞くと、その時代には、居住され手いる方がいて、その方が説明されたと聞いた。この家の所有者、根岸家の関係者だったのかな。

半世紀以上前だけど、この佇まいをなんとなく覚えていた。

 

ラフカディオ・ハーンはアイルランド国籍を持ち、アメリカに渡り、新聞記者として活躍したが、教職も得ていた。1890年7月にアメリカで知りあった文部省普通学務局長服部一三の斡旋で島根県尋常小学校と島根県尋常師範学校の英語教師として任じられた。

英訳された古事記により憧れていた日本に行くことになるのだ。8月30日に彼は松江に到着した。

1891年1月 、中学教頭西田千太郎のすすめで、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子と結婚し、松江藩士であった根岸千夫の屋敷が空き家になっていたので借用した。5月から熊本に転任する11月までの間だった。

1894年に東京帝国大学教授になった時に、日本に帰化したのだが、名前を八雲としたのは

『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』から取られている。古事記に造詣の深かった八雲ならではだ。

松江の時代には、まだ、日本に帰化していないので、ヘルン旧居とも呼ばれている。

この家で、小泉節子から松江を始め、日本各地の伝承を聞き、後に『怪談』等にまとめることになるのだ。『知られざる日本の面影』にはこの家の庭が登場する。一年にも満たない松江での生活なのに小泉八雲が松江の観光資源になっているのは、松江に存在した小泉八雲がいかに濃密な時を過ごしたのかがわかる。旧居内に碧眼でしかも片目が近視だった八雲が机に目をこすりつけるように原稿を書いた高い机のレプリカが展示されている。

僕がこの旧居を訪ねたのは、中学時代の恩師で鬼籍に入られた風呂先生が晩年、ラフカディオ・ハーンの研究に没頭されていたことを思いだしたからだ。隣接する小泉八雲記念館で、風呂先生のことを思いだしながら、早世した小泉八雲の生涯を偲んだ。

小泉八雲が早世した後、後任の文学部教授として、ロンDン留学から帰国した夏目漱石が赴任した。明治の日本にギリシャ生まれでアイルランド国籍を持ち、不遇な生い立ちを持つアメリカ、カナダでジャーナリストとして活躍し、日本文化を世界に広めた小泉八雲の存在は日本の必然だったのだろう。