旧毛利邸~山口県防府市多々良 | 大根役者

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久しぶりに防府の旧毛利邸を訪ねた。

 

 

明治維新後に公爵となっていた長州藩最後の最後の藩主十四代藩主毛利元徳の長男であり、毛利宗家29代当主、毛利元昭は国許に毛利家本家の邸宅を建てた。毛利元徳が明治23年(1890)に定めた家憲により、公爵毛利家の本拠は山口の「土地健康にして且つ交通便利の地」にすることが規定されていた.。元長州藩士で、当時、内務大臣の職にあった井上馨が奔走し、多々良山の南麓に場所を定めた。多々良邸とも呼ばれている。明治25年に着工し、日清、日露の戦争による、中断を経て、大正5年に着工した。

 

今回は、旧山陽道側からではなく、裏手の祖霊社から訪ねた。祖霊社は毛利家の始祖天穂日命以下先代にいたる祖霊が祭られ、春秋二回例祭が行われる。奥の絵画堂は毛利元就の木像を安置し、元就以下先代の肖像画が掲げてある。

現在は、毛利博物館である旧毛利邸裏手、新山口館ツリー側にある祖霊社にお参りする人は少ない。

旧山陽道側の表門

毛利家所蔵の雛飾り

 

防府市のH・Pには、下記の記述がある.。

 

『軒唐破風付車寄せをもつ、江戸期の御殿造の様式を取り入れた建築で、明治・大正の建築技術の粋を集めた殿堂である。木曽御料林のヒノキ・屋久島の神代スギ・台湾のケヤキ等、無比の良材が使用されている。
邸宅建坪約4000平方メートル、部屋数60、畳数780枚
元昭公がなくなると嗣子元道公は東京の邸を整理した後、梛邸に住まわれ地元の催し等に出られたという』

 

建築の素人の僕でも、この建築の素晴らしさはわかるのだが、下衆な僕は、掃除が大変だろうなと思うばかりで、タダでもらっても、住みたいとは思わない。

 

庭園も散策した。この庭で、毛利家の子供たちは遊んだ。うらやましい限りだ。


多くの施設がコロナ対策で閉館を余儀なくされている中、旧毛利邸は開いていた。防府でも『山頭火ふるさと館』は閉館していた。

基準がよくわからないが、開いている施設があることがうれしかった。