中山神社~山口県下関市綾羅木本町 | 大根役者

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JR山陰本線の綾羅木駅の近くにある神社だ。神道の神ではなく、中山忠光を祭神としている。中山忠光は尊王攘夷派の行動する公家として、幕末の維新へ向かう道の中に存在感を示した。その子孫が戦前戦中戦後の日本と密接なかかわりを持つことになる。

中山忠光は公武合体派の公家権大納言中山忠能の七男で姉の慶子は明治天皇の生母である。忠光が8歳のとき、慶子は孝明天皇の子、佑宮[のちの明治天皇を自宅の産屋で産んだ。忠光は明治天皇の8歳違いの叔父である。歳の離れた兄弟のような存在だったのだろう。

若い忠光は中山家に出入りする尊王攘夷派の志士、土佐藩の吉村田尾ら太郎や、久留米藩の真木和泉らと交流し、尊王攘夷歯の公家となり、父と対立した。後に国事寄人の官位を返上し、長州に行き、外国船襲撃に参加した後、天誅組を結成し、倒幕の狼煙をあげ太。当然、幕府ににらまれることとなり、長州藩を頼り、落ち延び、支藩の長府藩にかくまわれていた。

長州藩は禁門の変の敗北により朝敵となっり、中秋征伐の勅許がくだされたときには、長州藩では幕府への恭順により、危機を脱出しようとする俗論派が台頭した。こうなると、忠光は単なる厄介者に過ぎない。

元治元年(1864年)11月9日、長府藩の豊浦郡田耕村で5人の刺客によって暗殺された。享年20歳、激動の人生だった。

慶応元年(1866)、忠光の鎮魂のためが墳墓のある場所に社殿を建立し「中山社」と称したことが中山神社の創立とされている。










手水舎


拝殿



本殿


本殿の裏手に中山忠光の墳墓がある。中山社はもt元、ここにあった。



大正12年5月 に 社地が墳墓に隣接する現在地に移された。

中山神社の境内摂社に愛新覚羅社がある。

忠光は長州藩にかくまわれていた時に側女として仕えていた恩地トミを溺愛した。恩地トミは、忠光が暗殺された後に遺児仲子を産んだ。忠光の正室・富子が仲子を引き取り養育する事になり、公家の姫として育てるために長府藩の藩主毛利氏の養女となり公家・中山家に引き取られた。維新後に仲子は嵯峨公勝夫人となった。清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟である溥傑に嫁いだ浩は、仲子の孫で、忠光の曾孫にあたる





溥傑は日本に留学し、陸軍大学、陸軍士官学校を卒業して、戦中は、満州国皇帝になった兄を支えていたが、戦後は戦犯として中国政府に拘留され太。日本にいた娘の慧生が、父親と一緒に暮したいと周恩来に手紙を出したことにより、特赦を受け、釈放された。

その後、溥傑は、中華人民共和国 全国人民代表大会 常任委員および、全国政治協会商会議 常任委員として、中国国交回復および、両国友好に尽力した。

浩は、嵯峨公爵家の長女として生まれ、最初は、日本と満州を結ぶ親善結婚として、溥傑に嫁いだのだが、やがて互いにひかれあっていった。しかし、戦後は満州国の崩壊による逃避行や、文化大革命により拘束されるなど、波瀾の人生を送ることになった。

慧生は、昭和33年、学習院大学生の時、伊豆 天城山中でピストル心中をし、父に再会することなくこの世を去った。天国に結ぶ恋などと言われたが、その動機などははっきりしていない。

自分が死んだ時には、中国に近く、嵯峨家にゆかりのある中山神社に祀って欲しいとの浩の遺言により、浩と慧生の遺骨を納め、この地に社殿が建てられた。そのため社殿は中国の地に向い、西向きに造られている。

溥傑は1994年2月28日7時55分に北京で死去した。遺骨は溥傑の生前からの希望によって浩・慧生の遺骨と共に日中双方によって分骨され、日本側の遺骨は愛新覚羅社に納められ太。中国側の遺骨は三人共に中国妙峰山上空より散骨された。

愛新覚羅社は溥傑、浩夫妻の愛の深さから、恋愛の神さまとして、崇敬を集めている。