二号線を倉敷から広島に向かうと、左手に小高い山が見える。その丘の下は国道のパーキングになっている。鳥居や石碑が見える。
この山はかっては、小竹島、笹島と呼ばれた瀬戸内海に浮かぶ島だった。このあたりの瀬戸内海は吉備の穴海と呼ばれていた。この海は安土桃山時代から江戸時代前期にかけて、干拓され、陸続きとなった。
案内板には足高神社(帆下げの宮)とある。島の周囲は潮流が激しく渦が巻いていたといわれている。ここを通る船は全て帆を下げ、足高の神に航海の安全を祈願したことから「帆下げの宮」と呼ばれるようになった。この古来の海路が現在の国道2号線であるため、2号線に面して鳥居が置かれている。
山頂にある神社に上がる参道はこの駐車場から上る参道と合わせ四本ある。かって、島だったことがわかる。
参道を進む。
手水舎に明治四年の文字が見える。
拝殿下階段に帆下宮の石柱がある。
拝殿へ進む。この地方の神社に見られる廻廊がある。
本殿にある狛犬もこの地方でよく見られる備前焼だ。
由緒では
『鎮座の年代は、第10代崇神天皇の御代に勧請された。 寛和元年(985)花山天皇の御代、足高神社神宮寺神遊山、神宮寺遍照院に三重塔が建立された。
天暦元年(947)2月16日村上天皇は藤原兼成卿を遣わして、奉幣御祈願の儀があった。翌3年不思議な霊験があって神殿を御造営になり、有紋の御幕勅書を奉納され、乾元元年(1243)後二条天皇の御代、足高八幡大菩薩の勅額の下賜があった。
延慶元年(1308)花園天皇の御代、勅額と獅子頭一対を下賜。また、建徳元年(1370)九州探題として赴任の今川定世公は、海路の航海の安全を祈願され狛犬を奉納した。
徳川時代備前池田公の支藩、鴨方池田氏の祈願所として尊崇せられ、代継ぎの際は、代々必ず参拝された。』
とある。
古来より、崇敬を集めていた神社だ。
摂末社に金刀比羅神社、水分神社、磐座様、稲荷神社、顧眄神社が勧請されている。
足高神社が鎮座している足高山には面白いエピソードが残っている。
江戸の昔、大阪の呉服商の近江屋三郎が、番頭に使い込みをされて店がつぶれ、一家離散となった。三郎は、疲れた身体と心にむち打って、西の国でもう一度がんばることにした。大阪を発って三日たち、ここ倉敷笹沖についたころは、もう日が暮れかかっていた。
さて、ここからどちらに向かおうか。三郎はちょうど分かれ道に道しるべがあるのに気がついた。「北くらし」「西つらし」せっかくここまでがんばってきたのに、「北に行ったら暗いことがある。 かといって、西に行ったらつらいことがある。」三郎はと自ら命を絶つ決心をし、足高山に登り、首をつるための木を探していると、お坊さんが声をかけてきた。
「わしゃ、死人の世話をする者じゃが、 よかったら、事情を話してくれんかの。」三郎が道しるべのことを言うと、お坊さんは腹を抱えて笑い出した。だんなさんを連れてお坊さんは山をおりて、道しるべの前に立った。「だんなさんよ。その落ち葉をのけてみられ。」
三郎が道しるべの下にたまった落ち葉を払いのけてみると、「北くらしき」「西つらじま」とあるではないか。お坊さんは、続けて言った。「一度しかない人生、悪く悪く考えてはいかん。肝心なのは気持ちの持ちようじゃ。つらじまの南には、 福を呼んで待つという『福田 呼松』というところもある。 みんな幸せにくらしとる。元気を出してがんばってみられ。」
三郎は、涙を流してお坊さんにお礼を言い、それから、文字通り死んだ気でがんばった。店を再建し、家族を呼び寄せ、お坊さんにもお礼参りをし、しあわせにくらした。また、間違える人がいないように、今度は漢字で、「西連じま」という道しるべをつくった。
今回は確認していないのだが、この道しるべは現存している。
足高山は桜の名所だ。次回は春になって、訪れてみよう。