Kちゃんのことを語っていたら、ついぞ自分のことを思い出しました。
月間50キロという距離は、今でこそぺろりと走りますが、かの昔アタマに殻を乗せていたビヨっこだった時代には、それはそれは大変なことだったなあと
そもそもなーんの運動もせず、帰宅部(高校)もしくはボランティア部(中学)だったわたし。運動神経はよかったけれど(じぶんでいう)、「努力」というものができなくててですね。
まったく違う路線からですが、「努力」が「結果」に結びつくことを知ったのはこの職業についてから。エスカレート式で進学し、就職もテキトーなところで手を打ち、それまで「努力」というものと無縁の生活を送っていたところ、
そんな自分が血〇が出るほど、追い込んで取得したこの資格をもってはじめて「努力」というものが「結果」を生むことを知った三十路の秋。
そっから、なにをしだしたかといいますと、「スカッシュ」というマイナースポーツ。
これを選んだ理由はというと、「今から始めても(競技人口が少ないから)全日本ランキングがもらえる」というその一点。
ええ、やるからには真剣に目指せ全日本。すぐさま当時の全日本チャンプのレッスンを申し込み、毎夜スカッシュコートに立ちつづけた数年間。ロンモチめっちゃ努力をしてですね。いつかはとおもっていたんですがね。
これがまた、まあああったく日の目を見ない。
悲しくなるほど上達しねえ。
まあセンスがなかったといえば、そのとおりで、けれどそのころからしつこいわたし。そんなら技術ではなく持久力勝負だ!と
体力づくりにはしりだしたのが10数年前のこと。
そのときは、1キロも走れなくてですね。
というか、どこで走ればいいのかもよくわかってなかったので(ジョギングコースなるものを知らない)、ジムにあるトレッドミルで黙々とはしるのみ。そのころのノートを紐解くと、「2キロ走れた!」とドヤ顔の自分のメモが残ってますw
そんなわたしを見ていた叔母が「多摩川走ればいいんじゃない?」と。え?多摩川?うちから1キロも離れてるよ?←。そこまで走っていくことすら思いつかないというw
そうして「公道を走る」ことを知り、最初はドキドキしながら六郷橋まで(往復3キロな)。そっから少しずつ距離を伸ばして、多摩川大橋までいけたときは、めっちゃうれしかったことを覚えています(往復7キロな)
あの頃はたしか週2か週3。月間50キロ~60キロくらい。それでも少しずつ習慣化させ、月間100キロにいったときは、それこそ大騒ぎしたものです。(あの頃はガーミンなんかなかったので、キョリ測てやつで計って手計算で算出。今は便利になりましたね)
そう、わたしも最初はKちゃんだった。
2キロ走るのもぜーはーだった。
タイムやペースなんて考えたこともなかったし、少しずつだけど、たくさん走れるようになることが純粋にうれしかった。「努力」が目に見える「結果(走行距離)」になることが、楽しかったんだな。
そうしてマラソンにドはまりして数年。いま当たり前のように月間数百キロをはしっていることは、実はぜんぜん当たり前ではなく、そんなとこからのスタートでした。
朝5時からスピ練したり
夜どおしはしって小田原までいったり
かけって富士山によじのぼったり。
そんな未来は想像してなかったよw
ちなみに、スカッシュはそこでおしまい。
だってぜんぜん勝てないんだも笑
「努力」だけでは「センス」を補えなかった。ええ、それはランでも感じていることではありますがね。(しってた)
という、
懐かしいはなし。
ご清聴ありがとうございます(だれが)
そして思うに、そんなみなさんもきっと、ピヨピヨな時代があったはず
それがいまではさらりと42.195キロを走り、サブ〇〇とか国際とか。想像していなかったかもしれない未来にたどり着いている。
この日に繋がっていたんだな、と思える会心のいちにちを。
週末レースのみなさまの激走をお祈りしています。